横川中堂
中堂正面
恵心院

源信(942〜1017) 恵心僧都とも呼ばれる。
 平安時代の中ごろ、大和国葛城に生まれ、幼名を千菊丸といった。
 九歳のころ、近くの小川で鉢を洗う旅の僧を見て、次の問答をしたという。
 「お坊さま、むこうの川の方がきれいですよ。」
 「すべてのものは浄穢不二じゃ。きれい、きたないは凡夫の心の迷いじゃ。このままでよい、よい。」
 「それじゃ、どうして鉢を洗うの」
 何日かして比叡山から使いが来て、この利発な千菊丸の出家の話が決まった。先の旅の僧のすすめであった。
 比叡山に登り、良源僧正について勉学、十三歳にして髪をおろし出家となり、師から源信の名が与えられた。
 源信の才智はまわりの者の目を見張らせ、十五歳にして時の帝・村上天皇の御前で特別に『称讃浄土経」を講じる名誉を得た。天皇はじめ公卿殿上人、感嘆しない者はなく、数々の褒美の品と、僧都の位とが授けられた。
 源信は、早速この喜びを大和にひとり暮す母に知らせようと、使いの者に褒美の品を持たせた。しかし、褒美の品は返されてき、和歌が添えてあった。
 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
 母の厳しい訓誡にうたれた源信は、精進を重ね、叡山横川の恵心院に住んで念仏三昧の日を送った。
 三十数年後、母は念仏を勧める源信の膝を枕に、安らかな往生をとげたという。
 『往生要集』を浄土真宗の聖教とする。

 

比叡山・横川の般若谷にある源信の墓は、林道から幅約1メートルの石段を上ったところにある。(石段の前には「恵心僧都御墓」と刻まれた石碑があるが、道標の看板がないので、分りずらい。)墓碑の前に人の背丈くらいのかわいらしい石の鳥居があり、玉垣で囲まれている。反花座の基部、笠石と宝珠を頭頂部に載せた細い竿石のこの墓は、いわゆる「笠塔婆」と呼ばれるものである。すぐ傍の斜面やくぼ地には、僧都を慕うかのように、後代の横川の住持・僧侶たちの墓碑が立ち並んでいる。

 

 光明寺 〔京都府長岡京市粟生西条ノ内26の1〕
女人坂の紅葉で知られる光明寺は、西山浄土宗の寺。このあたりは、法然上人が最初に念仏の法門を説いた場所と言い伝えられている。建久9年(1198)、熊谷真実が御堂を建て、堅田の浮御堂から阿弥陀如来を迎えて祀ったのがこの寺の起源。応仁の乱の兵火などで主要伽藍を失ったが、相次いで再建され、現在2万坪の境内に、30余棟の堂塔が建っている。法然上人像を安置する御影堂、阿弥陀堂、信楽庭(しんぎょうてい)、勅使門などが見どころ。女人坂と呼ばれる高麗門からつづく石畳の参道は、秋には楓の紅葉がみごと。