●墓に対する思いさまざま
  @若者の墓に対するイメージ

 夕暮れ時、犬を散歩させて帰ってくると、お寺の門前で、下校途中 の学生たちが立ち話をしていました。「おいおいこんな所にレオパレスがあるぞ」(お寺の直ぐ前に 賃貸アパートが建っています。)「でもやばい、前に墓がある。」 「でも、家賃安いかもよ。」
 ずっとそこに生活している私は、そんなことは思いもしませんでしたが、高校生にとって墓は、直ぐに死をイメージするものであり、覆い隠すべきものなのでしょう。でも人間、どんな立派な家に住み、贅沢な暮らしをしても、所詮、最後は、墓を終の棲家としなければなりません。その厳然たる事実にいつか気づく日がやって来るで しょう。

  A毎日、墓参をする人々
 

  若者とは対照的に、墓をこよなく愛し、墓に参ることを日課としている人々がいます。この場合、愛するとは、別に楽しみで参る訳 ではなく、故人を追慕する墓参が、 いつしか自分のやすらぎに変わったということです。
  亡き人との、(無言の)会話は、仏壇の前でも出来ますし、別に対象物がなくても出来るでしょうが、やはり、その人の遺骨が眠っている場所が、即物的でもっとも身近であり、ふさわしい場所となるのです。また、墓は、故人追慕の場所というだけではなく、自らのいのちが帰ってゆくところであり、永遠のやすらぎの場所でもありましょう。
  この世のことに夢中であり、必死な若者と、あの世に思いを馳せるようになる年輩と、墓に対する思いが違うのは当然のことです。

 

 

●浄土真宗門徒にとって墓とは?
  @親鸞聖人にとって墓とは?

  最近でこそ、散骨とか、自然葬とかが言われますが、一般人にとって、死後、墓に入ることはまだまだ、常識と思われています。ところが、この通念は、必ずしも浄土真宗の宗旨・宗風に則っている訳ではないのです。
  浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、明確にご自分の葬儀や埋葬について、弟子に指示はしておられませんでした。しかしながら、聖人の曾孫に当たる本願寺第3世・覚如上人が宗祖のお心を『改邪鈔』に、「本師聖人(親鸞)の仰せにいはく、某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべしと云々。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。」(浄土真宗聖典註釈版 P937)と表現したことから、熱心な門徒の中には、火葬の後、僅かばかりの遺骨を取って、それを本願寺の大谷廟所へ納め、後は故郷の山野に遺棄するところも現れました。つまり石塔(墓)造立の習慣のない地域が、全国的に今でも見られるのです。
  絶対他力の阿弥陀仏一仏信仰を表する真宗教義からすれば、墓に供花・読経し、墓の下に、親族がいるかのように思って礼拝の対象とすることは、宗旨・宗風に悖ることです。熱心な浄土真宗地帯に墓が建てられなかった理由は、よく解ります。
  しかしながら、その教義に反して、遺族の感情(世俗の情)や、家父長制を維持するための社会的要請によって、浄土真宗の門徒の中に、世間一般に準じて墓を建てる習慣が生れたのも事実です。 

  A親鸞聖人の墓
 

  浄土真宗門徒は墓を建てるべきではないのか、それとも建てても良いのか?
  親鸞聖人がはっきりと「建てるべきではない」と、弟子に指示しておられたなら、恐らく「親鸞聖人の墓」なり、「親鸞聖人の廟所」なるものは、この世に存在しないはずであろうし、浄土真宗門徒に、墓を建てる地域、墓を持たない地域の別などはないはずです。
  しかしながら実際は、本願寺そのものが「親鸞聖人の廟所」として成立したものであり、西本願寺の大谷本廟〔京都市東山区五条〕には、親鸞聖人の墓があると聞きます。
  恐らく、親鸞聖人にとっては、浄土へ生れる信心が何よりも大事なのであり、自分の死後のことなどはどうでも良かったに違いありません。自分の葬儀や埋葬のことについて指示されなかった理由はここにあります。その流れを汲む浄土真宗門徒は、墓を建てようが、建てまいが、散骨にしようが、自然葬にしようが、信心さえあればどうでも良いと言うことになります。
  親鸞聖人の遺骨を埋葬し、墓を建て、そして廟所と言うべき「本願寺」を造立したのは、あくまでも聖人を慕う弟子の所業です。浄土真宗門徒の中に、墓を持たない地域があると言っても、全てを故郷の山野に遺棄するという訳ではなく、一部を大谷の廟所の親鸞聖人のお側近くに納骨するというのは、同じく宗祖を慕う思いからであり弟子たちとその心境は同じものです。

  B親鸞聖人の墓のモデル
 
  師の墓を建立するにあたって弟子たちがモデルとしたのは、当時、一般的であった五輪塔や宝篋印塔ではなく、かつて師が修行された比叡山の横川にある恵心僧都・源信の墓でした。
 親鸞聖人の墓は、『善信聖人絵』(本願寺本)には、急勾配の狭い石段のある懸崖の上に、簡素な木柵に囲まれ、笠石と宝珠らしいものを載せた細い竿石の墓碑、いわゆる「笠塔婆」風に画かれています。
  この形の石塔は、横川の慈恵大師良源の墓に使われたのが始まりで、尋禅、覚超など先輩の墓碑と同型で「横川様式」と呼ばれているものです。ただ、横川に現存するこれらの墓碑が、どれも八角形に対して、聖人の墓碑は六角柱に描かれています。

 

●墓再建の思い
@「末武家之墓」今昔
 
  末武家之墓は、昔は、境内と尾尻山の墓地にもありました。境内の墓地には、4基くらいの余り大きくない墓石が立ち並んでいました。その中の1基は、所謂、「坊主墓」でした。
  それを父が整理・統合して、大きな「先祖代々の墓」を築きました。墓が1基となったことで、残りのスペース(墓所)は、他人に譲ったようです。
  このことを、私が若い頃にはどうも思っていませんでしたが、住職となり、あちこちの墓地にお参りする内、特に寺院の境内墓地には、一見するだに、住職・寺族の墓所と分かる立派な墓が立ち並んでいるのを見て、自坊の墓所が気になるようになりました。
  平成4年に浄蓮寺の境内墓地を整理する前には、ちょうど現在の境内前庭の築山のところに、大きな「徳應院釋立泰」の碑が建っていました〔現在は、墓地の入り口に、その碑のみ
が立っている〕。その碑の前には池があり、小さな石橋が架かり、碑は、一際、目立つものでした。
  浄蓮寺第14世のこの碑のみが、凌駕し、浄蓮寺歴代の住職・寺族の眠る墓所は、誰もそれと気付かない簡素なものでした。ただ、1基の「坊主墓」があって、それと分かるものでした。
 
  「坊主墓」(正式には「無縫塔・むほうとう」と呼ぶ。)は、元々は禅宗に伝わる僧侶の墓の様式で、後世には広く各宗派で用いられるようになりました。
  その「坊主墓」を除けて、何の特徴も無い墓を、前住が建てたことが悔やまれてなりませんでした。これでは、住職・寺族を偲ぶよすがとも成りません。
  住職が墓を建てるには、それ相応の、宗派の教義や歴史、そして、墓に関する知識、寺門における住職・寺族の立場を踏まえた上で、為さなければなりません。そのことが、自らが住職に就任して以来、ずっと頭の中にありました。
   
  A墓再建計画
 
  住職に就任して、はや23年、本堂改修や境内整備、門信徒会館の造営等の事業を終えた今、そろそろ、自分の落ち着く先を考えるようになりました。そして、墓は懸案の事項でした。
  今年(平成19年)春には、墓地整理の時に建てた共同墓を、納骨のし易い堂形式に改修し、その改築を石材店に依頼する際に、同時に、この末武家の墓のことも相談し、設計図を描いてもらいました。
    新しい墓をどのような形式にするか、思案のしどころでした。本来なら、以前の形式の「坊主墓」がふさわしいのでしょうが、「坊主墓」は、元々は禅宗の様式です。浄土真宗に墓が必要か否かの議論はありますが、建てるとすれば、やはり、歴史的な経緯のある「横川様式」がふさわしいのではないかと考えました。
 親鸞聖人の墓に則るということは、僭越なことですが、これも聖人を慕う思いからです。この墓に手を合わす代々の寺族・門徒が同じく親鸞聖人の遺徳を偲んでほしい、そんな思いも込めて、この様式にしました。
 着工は、いよいよ来年(平成20年)です。数年来の夢が、今ようやく、現実のものと成ろうとしています。 
 

 

 

B再建のために…<横川の恵心僧都の墓に参る>
   
墓の設計図は出来たが、そのモデルとなる比叡山の横川の恵心僧都の墓を一度、見学しておきたい、そんな思いの中、墓参りの機会を得ました。地図で検討をつけながら、その墓所を探しましたが、何せ墓所への標識のないところ、時間が掛かりましたが、ようやく探し当てました。
  その墓所は、私の想像では、僧都の墓が、ぽつんと1基、鬱蒼とした林に囲まれ、ひっそりと佇むものでありました。が、以外にも、起伏のある、明るい丘陵で、僧都を慕うように、横川の歴代の住持・僧侶たちの墓石群が周囲を取り囲み、さながら浄土に生れ来たような、かつて経験したことのない不思議な光景でありました。いつまでも去りがたいところでした。 〔写真ページ参照
  このような墓所を、人目に付く看板を立てて、観光客に案内すると、その雰囲気が台無しになってしまいます。墓所を探すのに手間が掛かりましたが、それはそれで良かったと納得をしました。
  墓の再建が、思いがけない体験を呼び、更に、歴史のある墓石や石造に対する興味を湧かせてくれたことを、今、しみじみと有難く思っています。

 

 

 

 

参考文献
『真宗門徒の墓づくり』 福原堂礎著 朱鷺書房
『<聖典セミナー>親鸞聖人絵伝』 平松令三著 本願寺出版社
「初期の御影堂」 豊原大成著  『宗報』平成11年5月号(本願寺出版社発行)
『真宗と民俗信仰』 蒲池勢至著 吉川弘文館
「石造物」  『図説歴史散歩事典』 山川出版社
『脳と墓』 養老孟司 齋藤磐根著 弘文堂
     
  C新墓完成
   浄土真宗の理想の墓を求めて20数年、ようやくその機が訪れ、新しい墓を完成させることが出来ました。
  〔平成20年3月12日〕
   個人的なこだわりから出た新墓建立。こんな我儘に付き合ってくれた坊守と、住職のさまざまな要求に快く
  応じてくださった金子津俊・金子石材店社長に心より感謝します。
   もう春の彼岸、父もお浄土より苦笑いをしているでしょう。墓はお浄土への入り口。どこから入っても行き着
  くところは同じでしょう。なんだか、お浄土が、より見近に感じられるようになったな。有難いことだ。ナンマン
  ダブ ナンマンダブ   
 

 

 

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