いよいよこれから、今回の旅の目的地である加賀・能登に向けて出発しますが、その前に「北陸と浄土真宗門徒」の関係について、予備知識を持っておきましょう。

◎北陸と浄土真宗(一向宗)門徒

 承元元年(1207)、親鸞聖人が念仏停止の法難によって越後国府(現上越市)にご流罪になられた折に、越中三坊主と聖人が邂逅されたという伝説が、黒部・願楽寺に伝わるが、その当寺、既に多数の念仏者が越中には存在していた。その念仏は法然門流(13世紀初頭)や時宗(13世紀末)によって伝えられた念仏であった。

 浄土真宗が北陸に最初に伝わったのは13世紀末であり、文献には「水橋門徒」の記事が見受けられる。その30年後には、本願寺第5世の綽如上人が下向され、越中国井波に瑞泉寺が建立されてから、本格的な浄土真宗の伝播が始まる。続く6世巧如上人・7世存如上人の時代には、能登の本誓寺、加賀の専光寺・本泉寺・光徳寺、越前の西光寺と言った寺々を拠点に北陸教化が進み、8世蓮如上人に至って 特に加賀は、“百姓の持ちたる国”と言われるほどの法義地に成長して行くのである。

 文明3年(1471)、蓮如上人によって建てられた越前・吉崎御坊は、上人が5年後に退去されてのち一向一揆の争乱によって、白山平泉寺の衆徒に襲われ、堂宇はことごとく失われた。一向一揆とは、室町時代末期、越前・加賀・能登・三河・近畿などで起こった宗教一揆で、真宗(一向宗)の門徒国人・門徒農民・坊主たちが連合して、大名領国からの解放を企てた。一揆は加賀の守護富樫政親を高尾城に攻めて、長享2年(1488)、ついにこれを自刃させ、加賀を支配するところとなった。 ついで越前を侵略して、これを領国化しようとしたが、強大な戦国大名の朝倉氏に阻まれて、この企ては成らなかった。しかしこののちも、国境・吉崎付近での争乱はくり返され、吉崎御坊をはじめ越前平野の寺院は、その多くが焼失してしまった。発生以来、およそ1世紀にわたって加賀を支配し、越前を侵した一向一揆も天正3年(1575)に織田信長によって滅ぼされ、柴田勝家が北ノ庄に城を構えるにいたって、ようやく沈静化をした。

 

Aへ続く

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