2012/10.31~11.01 第23回聞法旅行で、奈良・大阪の聖徳太子のご旧跡を巡りました。

  今年の聞法旅行は、当初、私(住職)の希望は、墓所〔親鸞聖人、源信僧都、聖徳太子等々〕を訪ねる旅でした。歳のせいか、職業がらか最近は墓に心魅かれます。怖いというより、最後に落ちつける場所として、次第に身近に感じるようになってきたからです。しかしながら、運営委員会でそのことを諮ると、どうも、それは良いと喜ぶ人は余りありませんでした。まだまだ皆、若いから?にぎやかなところの方が良いから?
  そこで、その中の一つでも実現してやろうと、昔、この聞法旅行でも訪れたことのある聖徳太子廟のある叡福寺を含めた、「聖徳太子のご旧跡を巡る奈良・大阪の旅」という企画をしました。
 募集をしたところ、運営委員を中心に、最高29名の応募がありましたが、次第にキャンセルが出て、結局、23名で出かけました。
 奈良・大阪の聖徳太子のご旧跡といっても、地理的に広範囲になります。とても、個人で、場所を探しながら、要領よく参拝することは出来ません。今回も、京都の平安観光さんのお蔭で、快適で有意義な旅をすることが出来ました。1泊2日の行程でしたが、もうちょっと居たいような、誰のこころにも印象に残る旅でした。
 単なる観光や慰安の旅ではない、究極の安心(あんじん)を求める聞法旅行。その意味を次第に皆さんも理解されるようになったのか?来年も行程の一つには墓所を入れることになりました。来年の旅行がまた、楽しみになりました。
 
 以下は、「旅のしおり」として編集したものです。この種の旅を計画される場合の参考にして下さい。なお、この他にも、平城京跡の大極殿、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』で有名な壺坂寺にも行きましたが、今回は聖徳太子の旧跡巡りということで、その関係資料のみを掲載しています。
 ◇聖徳太子 〔574~622〕
 用明天皇の皇子。厩戸豊聡耳(うまやどとよとみみ)皇子・上宮(かみ
つ みや)太子ともいう。593年に叔母の推古天皇の摂政となり、任那
復興のため新羅征討、冠位十二階・十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、その他国史を編纂し、四天王寺・法隆寺を建て、みずからも三経(法華経・維摩経・勝鬘経)義疏を著わした。
 摂政となった翌年、三宝興隆の詔を発布、国是として崇仏を示し、ひろく外交を通して文物を移入するとともに、深く仏教を学んだ。ここに、太子を日本仏教の祖と仰ぎ、とくに日本仏教の開祖として尊ばれる理由がある。太子に対する讃仰は、種々の太子伝の編述となり、以後その時代により人々によって、さまざまの太子像が信仰されてきた。 
 【右の太子絵像は、浄土真宗寺院の本堂右余間に掛けられている。】

 

 

 

◇親鸞聖人と聖徳太子
  聖徳太子は、あらゆる衆生が仏と成る道を歩むこと ができると説く一乗(大乗)の教えを、日本で初めて人々とともに実践しようとした人である。親鸞聖人在世時には、こうした太子を、常に人々とともにあって、その願いをかなえてくれる観音菩薩の示現として讃える信仰が、天台宗や南都諸宗によって既に盛んに広められていた。
  親鸞聖人は、一乗の教えを根本に置く天台宗の本寺比叡山で、阿弥陀念仏を称える行に深く関わる堂僧という役職をつとめ、人々と真にともに歩む道を求め続けたが、それを実感できずにいた。そうした中で29歳の時、親鸞聖人は比叡山を出て、太子の建立と伝える六角堂に参籠し、太子の本地とされていた救世(くせ)観音から夢告を受ける。それは、単に人々の様々な願い(欲望)をかなえる存在としての観音ではなく、そうした願いを持つことでかえって自他を傷つけ生きざるを得ない人間のあり方を悲しみつつ、なおどこまでもともに歩み、人々を浄土へ導こうとする観音の誓願が示されたものだった。この後、親鸞聖人は、法然上人のもとに赴いて専修念仏の教えに帰し、師法然を、阿弥陀如来の智慧をあらわる勢至菩薩の化身と仰いでいくことになる。一乗の教え、そして阿弥陀念仏の真の意味を確かめようとした親鸞聖人にとって、聖徳太子は、師法然とともに、常に阿弥陀如来のはたらきの具体的な姿をあらわす存在となった。 
  親鸞聖人は、こうした関心から聖徳太子を生涯にわたって深く敬い、晩年には、その仏法弘通(ぐずう)の真義を確かめるべく、『皇太子聖徳奉讃』など多くの太子関係の和讃を製作した。また、親鸞聖人在世時から初期真宗の時代には、既に太子信仰の広がりがあった地でも親鸞の教えが説かれていった。太子信仰が既に広く展開する時代にあって、親鸞聖人が人々とともに確かめた太子観は、各地に着実に根を下ろしていったのである。
                           東舘紹見〔図録『親鸞展 生涯とゆかりの名宝』より〕
 ◇聖徳太子ゆかりの寺 
 日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した確実な寺院について「法隆寺と四天王寺だけである。」と述べている。
  四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
◎法隆寺(ほうりゆうじ) 奈良県生駒郡斑鳩町
 聖徳宗の総本山。法隆寺は飛鳥時代の姿を現
在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の縁起文によって知ることができる。それによると、用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したが、その実現をみないままに崩御した。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれている)であると伝えている。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられている。広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来している。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいる。このように法隆寺は、聖徳太子が建立した寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めている。
◎飛鳥寺(あすかでら) 奈良県高市郡明日香村飛鳥
 山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。
蘇我・物部の合戦で蘇我馬子が物部守屋を破った後、泊瀬部皇子が馬子の後押しで即位し、崇峻天皇となった。天皇は、守屋と組んで戦の引き金となった穴穂部皇子の弟だが、馬子側についた。馬子の意中もはじめから泊瀬部皇子にあったといわれる。用明天皇に続く蘇我系の天皇だ。この後、馬子は朝廷に独裁的な権勢をふるうようになる。そのような中で、馬子は飛鳥に本格的な寺を造り始める。
 推古天皇4年(596)に、四天王寺や法隆寺の数倍もの面積を持つ日本最初の本格寺院が完成した。「法興寺」(ほうこうじ)また「元興寺」(がんごうじ)とも呼ばれた、いまの飛鳥寺である。
 創建当初の飛鳥寺は、仏教の拠点だけでなく、外国使節の饗宴や朝鮮人の遊興が催されるなど、政治・文化の総合センター的な役割も担った。大化の改新のきっかけとなった中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の出会いも、ここで催された蹴鞠の会だったとされる。
 平城遷都の後、飛鳥寺も養老2年(718)に移され、元興寺(奈良市)となったが、伽藍の中心部はそのまま旧地に残され、元元興寺と呼ばれた。これが現在の飛鳥寺である。しかしこの寺もその後、落雷にあって焼失し、江戸時代になってむかしの中金堂跡に安居院(あんごいん)と呼ばれる今の本堂が再興された。
 その本堂に日本最古の大仏・金銅釈迦如来像が安置されている。推古天皇が14年(606)に仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)に作らせた。この時、高句麗から黄金三百両が贈られ、完成当初は黄金色にまばゆく輝いていたという。火災で黒焦げになりながら、また長い歳月を雨ざらしになりながらも今日まで残ったが、わずかに顔の上半分と右手の指3本のみが当時のもので、他は後世のものだ。馴染みの深い優しい丸顔の仏像とは違い、冷厳な印象を与える面長な顔に銀杏型の目を持ち、口元には神秘的な微笑を漂わせている
◎橘寺(たちばなでら) 奈良県高市郡明日香村橘
 天台宗の寺院。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
 太子生誕の地を伝える橘寺は、太子の祖父欽明天皇の別宮・橘宮、あるいは太子の父用明天皇の別宮・上宮が置かれたところとか。太子の別称「上宮太子」は、太子がここで生まれ育ったことに由来する。
 寺伝によると、推古天皇の14年(606)、太子が推古天皇のために「勝鬘経」を講讃しているとき、庭に蓮の花が1メートルも降り積もったり、南の山に光明を放つ仏頭が現れたり、太子の冠から日月星の光が輝くなど不思議な出来事が相次いだので、天皇が仏塔建立を命じたという。
橘寺の山号である仏頭山上宮皇院の「仏塔山」は、この瑞祥に因るものだ。この時の蓮の花は本堂の東にある土壇に降ったといわれ、この土壇は「蓮華塚」と呼ばれている。また、観音堂の右にある「三光石」が日月星の光だという。
 創建当初は、橘樹寺(たちばなのきでら)という尼寺で、東西870メートル、南北650メートルの広大な寺域に四天王寺式伽藍配置の金堂、五重塔や60余の堂塔が並び立っていたといわれる。しかし、失火・落雷・多武峰の僧兵の焼き討ち等々で全山が壊滅した。
 現在の本堂(太子殿)、如意輪堂(観音堂)などは江戸時代に再興されたものだ。太子が「勝鬘経」を講義したところと伝える往生院は、花が描かれた天井画が美しい。
 創建当時のものでは、本坊の門の前の土壇に花の模様をした五重塔の心礎が残り、当時の繁栄した尼寺の面影をわずかに伝えている。
 ◎叡福寺(えいふくじ) 大阪府南河内郡太子町
 聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があること
で知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如 意輪観音である。開基は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれている。
 この寺にある叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、? - 621年)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 622年)が眠っているとされている。叡福寺の所在する磯長は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
 叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。寺は天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。
 『親鸞聖人正統伝』によれば、親鸞聖人は19歳の時に法隆寺を訪ね、ついで「同年九月十二日、河州石川郡東条磯長聖徳太子の御廟へ参詣ましまし、十三日より十五日まで三日御参籠なり、第二の夜、夢想を蒙りたまふ、十五日正午に件の記を書さる」として、廟窟に詣で太子より夢告を受けたというが、その夢記の文は、専修寺本山所蔵の「三夢想記」の最初にも載せる。今日知られる親鸞聖人真蹟のものは、金沢の専光寺に伝える三骨一廟文である。
  我身救世観世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
  為度末世諸衆生 父母所生血肉身 遺留勝地此廟崛 三骨一廟三尊位
 これは、もと「文松子伝」にある偈文より抜書きしたもので、ここにいう三骨一廟は、太子母、太子、太子妃の棺を一廟に合葬したこの磯長の御廟〔上記、北古墳〕のことである。