「清め塩」なんか要らない!

 葬儀の席で見かける「清め塩」。何に使うのでしょう?死を穢れと見て、それを祓い清めるためのものです。何気ない習わしとなっていますが、決して故人の遺徳を偲ぶにふさわしいものではありません。

 故人は阿弥陀さまのおはたらきでお浄土に生まれられ、仏と成って、これからは私たちを導いて下さるといただく念仏者の味わいの上からは、死を穢れと見る「清め塩」は必要ありません。

〔もう既に、その習俗が私たちの運動によって廃止された地域が多々あります。〕


「葬儀にまつわる習俗」お断り!

 「清め塩」の他にも、葬儀には数多くの習俗が見受けられます。「一膳飯」「枕だんご」「旅装束と六文銭」「守り刀」「神棚隠し」「棺桶回し」「忌中札」「四十九日の三月越し忌避」「喪中の年賀欠礼」等々数えれば切りがありません。

 これらの習俗の底に流れるものもやはり、死に対する恐れや穢れの意識です。そしてそれらを助長し、伝えてゆくのは大概はもの知り顔をした親戚や近所の世話焼きです。けれども、上の習俗のすべてが浄土真宗の葬儀にはふさわしくないものです。

 仏徳を讃嘆し、故人の遺徳を訪ね偲んでゆく葬儀をお勤めするには何よりも先ずご住職に相談したいものです。     


日柄なんか気にしない!

 葬儀を行う上で、未だに根強い習慣となっているのが友引を避ける風習です。

先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口―いわゆる「六曜」は、元は古い中国の時刻や方位の占いであったのが、日本流に解釈されて、江戸時代末期から民間に普及したものです。友引は、元々は先勝(午前が良い日)と先負(午後が良い日)の間にあって、「共に引く」即ち勝負なしの日であったのが、「友を引く」に言い換えられたものです。仏教的には全く意味の無いもので、むしろ日柄を気にする迷いを起こす元になっています。

 もはや中国でさえ使われていないこの「六曜」を、今も暦に載せる無神経さがもっと問われなければなりません。


解説

  塩によって穢れを祓う習俗は古神道に由来するものです。けれども人間の罪業は、塩によって簡単に祓えるほどの生易しいものではない(「悪性さらにやめがたし こころは蛇蠍のごとくなり」)と述懐されたのが宗祖、親鸞聖人です。

 しかしながらその罪業が深ければこそ、それを摂取(救いとる)して捨てない如来の大悲が、いよいよ有り難く、たのもしい(「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず」)と宗祖はいただかれたのです。

 浄土真宗門徒は、「門徒もの忌み知らず」と世間から言われ、もの忌みをしないのが、わが宗門の伝統でありました。けれども、現行の葬儀を見ると、必ずしもそのようにはなっていないようです。もの忌みを知らずに世を渡ることができた浄土真宗門徒の力強さとは何であったのかもう一度、思い起こしたいものです。