お釈迦さまが嘆かれる―祈祷仏教 

 テレビの歴史番組には時として、僧侶が天皇や将軍の病気治しのために加持を行ったり、或いは敵を打ち負かすために祈祷を行ったりする場面が登場します。このことから一般に仏教は呪術と深い関係があるように思い勝ちでありますが、これは大きな誤りです。

 確かに、吉凶禍福を占う呪術〔陰陽道〕は、中国大陸から易や暦法とともに、僧侶によって伝えられました。また密教の影響のつよい平安時代には民衆の求めに応じて、僧侶が盛んに雨乞いや地鎮祭、厄除け等の祈祷を行ったことも歴史の事実であります。このことが呪術と仏教の深い繋がりを連想させるのでありましょうが、けれども、これが仏教のどの宗派においても行われていたものではないこと、また転迷開悟(迷いを転じて悟りを開くこと)を説く仏教本来の姿ではないことは銘記されなければなりません。


他人まかせの人生―占い

 今や世は占いブームと言っても過言ではありません。星占い、カード占い、血液型占い等々、テレビや雑誌、新聞にも常設のコーナーが置かれるほどの盛況ぶりです。

 この占いブームの背景には、人生の岐路に立って、身近に相談する相手がなく、どの道を歩むかの判断をついつい占いにゆだねてしまう現代人の孤独な姿が浮かんで見えます。 

 けれども、その場その場はそれでしのげても、老・病・死と言った人生の根本問題に直面した時には、それらにどう向き合って行けるのか。―他人にはゆだねられない自分の人生。それを見通し、判断して行ける確かな眼(まなこ)を持つことがやがて必要になってくるのではないでしょうか。          

 


使い捨ての神仏―ご利益信仰

 家内安全、商売繁盛、無病息災等々を熱心に神仏に祈る人のことを世間では、“信心深い”と呼びます。けれども自らの欲望をかなえるために、神仏をいわば、利用することが信心と言えるかどうか?

人間の欲望には際限がありません。一つのことがかなえられれば、もっとそれ以上のものが欲しくなります。長寿を祈ると言っても、どこまでも長生きできる訳ではありません。

 欲望を抜きに人生を送ることはできません。しかしながら、欲望を無制限に肯定したり、まして欲望をあおるのが宗教ではありません。

 欲望の故に起こってくるさまざまな苦悩―それを乗り越えて行く道こそ真の宗教であり、仏教であります。色々なところに祈願に詣るより、お寺での法話聴聞に努めたいものです。

 



解説

   仏教には、お釈迦さまが亡くなられて時代を経るほどに、教えが廃れて世の中が乱れるという時代観〔末法思想〕があります。

 親鸞聖人(1173〜1262)も「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」と、当時の僧侶が、道心もなく妻子とわが身の世過ぎのためだけに、神主、陰陽師さながらに占いをし、お祓いをしていることを嘆き、末法の到来を強く意識しておられました。

 この末法の到来の危機意識は、しかしながら、その時代を生きる人々に深い反省と発奮を促し、その時代に相応した仏教を生み出してきました。それが正に念仏の教え―浄土真宗でありました。仏教の習俗化〔世俗化の意〕に絶えず目を光らせるのもまた仏教の大きな役割であると言えましょう。