21世紀の子育て進化論

 
  21世紀の子育て進化論

  〜〜本のご紹介〜〜

 末武教行

  〔恵愛堂病院:群馬県山田郡大間々町勤務〕  

 この度出版した本は、小児科医として勤務している病院の病院新聞に6年間連載した子育て論をもとにしました。
  小児科医になって四半世紀たち、区切りの意味もあり、思いきって一般書籍のかたちに書き下ろしました。
 小児科医は他の科とちがって患者さんと本人の病気だけを診ているだけでは十分ではありません。子供が自分の状態を判断できるわけではありませんから、常に御両親や家族に様子を聞いたり説明する必要があります。

 また小児科医は重い病気から日常の生活まで、子供に関するあらゆる課題の解決策をその場で家族に示すことを要求されます。つまり患者家族の強力な「子育てサポーター」として機能しているわけです。すでに子育てに関する本は学者や教育者によって多数書かれていますが、具体性に欠けて内容がないものもあります。第一線の小児科医として今回多いに子育てを論じました。
 長い小児科医の経験で様々な患者や家族に出会いました。子供とは何か、親とは何か、家庭とは何かを考えさせられ、多くのことを学びました。家族のなりたちがそれぞれ異なるわけですから、子育ての方法も考え方も違いがあります。複雑化して多様化した現代社会においてはなおさらのこと、巨視的にながめてはじめて見えてくる子育ての原理や方向性の指標が求められています。
 書名に進化論という表現を使いました。進化という言葉が現代日本では進歩という意味を誇張した宣伝文句として乱用されています。進化論はもとをたどれば、19世紀末に英国のダーウィンが地球上の一千万種以上あるとされている生物の多様性の発生原理を追求していくなかで生まれた理論です。『種の起源』という著書に書かれています。生物は世代交代をくりかえすなかでゆっくり変異し、これは遺伝します。より有利に変異した生物とその子孫は生き延びる確立が高くなります。気の遠くなるような長い自然環境の変化の歴史でみれば、より強い生物ではなく、より適応的に自ら変化していった生物が繁栄するという考え方です。進化論は様々な学問を総動員して生まれた科学理論です。拙著では、人間は進化論ではどのように位置付けられているのかにふれて、子育て文化を進化論に考えるという意味でこの言葉を使わせてもらいました。子育てを多くの経験と最新の知識で科学的に考えるよう努めました。
 縁あって医学の道にすすみましたが、私自身の生命や自然の原理に近づこうとする意識の底には、子供の頃聞いていたお寺の法話の影響があるのだと思えます。子育て最中の方、お孫さんをみておられる方、教育や保育にたずさわっておられる方などの幅広い読者を期待しております。
 出版社等の詳細はここをご覧下さい。       

 

 

 土 徳 (どとく)

 
  土 徳 (どとく)

            浄蓮寺坊守 末武伸子 〔仏教婦人会総会の挨拶より〕

▽私は、今年になりまして、特に心に残った二つの場面に出遭いました。

▽一つは、二月の寒い頃、生ゴミを一輪車に載せて出しに行きましたところ、中央線の向かい側に 沢山のゴミが出してありました。その場所で、一人の七十歳を過ぎられた男性の方が、自分が持ってこられたゴミの袋のひもをほどき、路肩やその周りに生えている草をひいては、入れておられました。しばし足を止めて、様子を見ておりました。

 私はその時、私にもできるかな、若い人たちにできることかなと思いながら、地域社会に深く根をおろして生きてこられた人々の重みを感じたことでした。

▽いま一つは、四月のある日のこと。市内を車で走っておりました。押しボタン式の信号がある横断歩道で、赤になっていましたので停車しましたところ、やはり七十過ぎの男性がボタンを押されたからでしょう 、私が止まった前を、帽子をとって、頭を下げてわたって行かれました。車を止めたことに対してのお詫びだったのでしょうか。

▽お二人の年配の男性の方の所作は、ごく自然でした。

 私は下松で生まれ、育った者ではありませんが、お二人のお姿は、間違いなくこの土地が育んだものだと思いました。私も、子どもたちも、地域の人々やご門徒にお育てをいただいて、今日があるということをしみじみと感じさせ られました。

 

 

 

アミダさまのこころ

 
 アミダさまのこころ

            浄蓮寺住職 末武一行 〔ご法事での一口法話〕

▼あるテレビ番組で、こんなインタビューをしていました。

 「これまでの人生で、何が一番“嬉しかった”ですか?」

 いろいろな回答がある中で、断然トップは「子どもが生まれたとき」でした。

▼確かに、人生最大の喜びは“子どもの誕生”かも知れません。

 がしかし、毎日新聞の川柳に幸せと苦労届けるこうのとりと言うのがありましたが、子を持つということは、同時に苦労も背負い込むということです。

  子が病気きのうとちがうそらの色

 子が病む時は、親も病みます。

 「アリガトウ」合格の子に頭下げ

 「オメデトウ」は他人ごとです。「アリガトウ」は我がことです。「アリガトウ」と頭下げる親…ありのままの親の姿です。

▼朝夕におつとめします「お経」は、漢文であるため、その内容がすぐには読み取れませんが、これ全て、アミダさまの親心です。

 それは、一切衆生(生きとし生けるものすべて)が、この迷いの世を超えて、さとりの身にならなければ、私も仏には成らないという願い(本願)で満たされています。

 子が助からなければ、我が身も救われない…親心です。

▼お経をおつとめする時には、アミダさまの尊く切ない親心を想いましょう。み仏の大悲…親心が感じられた時には、お念仏を申 しましょう。それを仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏と申します。