平成20年年頭挨拶 年の暮れに、その年を表す「一文字」が発表されます。それを清水寺の管長さんが揮毫する光景が、テレビでも放映されます。 |
〔 「住職のデジタルエッセー」2007.04.18掲載 〕
■最近、思うこと 人生には、思い通りに行かないことが沢山あります。希望した学校に進めなかった。思ったような仕事が見つからなかった。親の反対を押し切って一緒になったのに、その人と結局は分かれてしまったことなど。 その時、ものごとがうまく運ばなかった理由を、何か災害にでもあったかのごとく、他人のせいにして当り散らしたり、反対に、自分はだめだ、自分には能力がない、いつも要領が悪るいと、自分をせめたりします。 今頃は何でも、コンピューターで操作できるようになりました。人生もコンピューターのように、リセットしたり、上書きしたり出来たら良いなと、ときどき思います。それが出来ないところに人生の難しさがあります。 家ではよく「人生はあきらめが肝心だ」と言います。そう言うと家内に、「あなたは、ものを始める前からあきらめていることの方が多いじゃないですか」と突っ込まれます。 人生は、コンピューターのように、直ぐには解答が出ません。0か1かのデジタルではありません。答えを急がず“待つ”ことも必要ですし、“自分に与えられた現実をしっかりと受け止める”ことも必要であろうと思います。それを、仏教では“諦め”、“明らかに見る”と言います。 ■幸せとは何か 世界選手権で何度も優勝を果たした選手がいます。それでもまだ、新たな記録に挑戦しています。また、もう一歩のところで、優勝を果たせなかった選手もあります。どっちが“幸”せでしょう。どっちも夢を追いかけているという意味では“幸せ”なんじゃないでしょう。どっちが“幸せ”と言う訳ではありません。 私は「人生はあきらめが肝心だ」と思っている人間です。そんな者は、競争をすることの方が“苦痛”で“不幸”です。平々凡々とした日常の方が“幸せ”です。 これこそが“幸せ”であると言った絶対的なものはないと思います。それぞれの人に、それぞれの“幸せ”があるだけです。そう言うことから言えば、誰もが“幸せ”な筈ですし、誰もが“幸せ”になれると思います。他人の“幸せ”を嫉んだり、自分の“幸せ”を自慢したりしない方が良いと思います。“幸せ”は相対的なものです。
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「世のなか安穏なれ 仏法弘まれ」 〔平成19年元旦会挨拶〕 新年明けましておめでとうございます。早朝よりようこそお参り下さいました。旧年中は大変お世話になりました。どうぞ、本年もよろしくお願い致します。 今の世の中、住み易くなっているのか、住み難くなっているのか、人によって受け止め方は違うでしょうが、昨今のニュースを見ていますと、一見、華やかな世の中に見えますが、悲しい思いや、寂しい思いをしている人々が、年々、増えているのではないかと思います。 人間、弱い立場に成れば、「同病相哀れむ」で、同じ立場のものをいたわるようになるかと言えば、必ずしもそうではないようです。最近、起きた中学生が、次々とホームレスを襲って、金品を巻き上げたり、殺害までした事件は、それを思わせる事件でした。現代の犯罪者は、必ずしも、凶暴な顔をしてはいません。むしろ、まじめで、大人しい人が、犯罪を犯しているのです。この少年たちと、それをそそのかしたと言われる30才前の青年も、日頃の鬱屈した思いを、ホームレスへの襲撃で、発散させていたようです。 現代は、人間の弱さがむき出しになっている時代であるのかも知れません。かつては、その人間の弱さをカバーしてくれる家族や、地域社会がありました。今は、その家族や地域社会が崩壊の危機にあります。 今月の浄蓮寺の門前の「こころの掲示板」には、「世のなか安穏なれ 仏法弘まれ」という宗祖・親鸞聖人のお言葉を掲げました。この言葉は、親鸞聖人七五〇回大遠忌のスローガンにもなっています。「仏法が広く、世のなかに浸透して、平和でありますように」との宗祖の願いです。 この言葉の「世のなか」というのは、決して、世界とか、日本とか、国家とか言う抽象的なものではないと思います。私たちが、そこで暮らしている身近な家族とか、地域社会のことです。その家族や地域社会は、今、危うい状況になっていますが、しかしながら、だからと言って、そこ以外には、私たちの住む場所はありません。その家族や地域社会を仏法に彩られたものにして行くことこそ、今、必要なことではないでしょうか?お寺の役割もまた、ここにあると思います。 今回、「日の丸の旗」と、「仏旗」を門前に掲揚した意味は、「日の丸の旗」に「世のなか安穏なれ」、「仏旗」に「仏法弘まれ」の意味を込めたものです。これらの旗を掲揚する度に、この宗祖のお言葉を思い起こしたいと思っています。それに、賛同される方は、ご自分の家でも実行されてはいかがでしょうか? 親鸞聖人七五〇回大遠忌は、もう4年後、浄蓮寺開基400年は3年後に迫っています。そろそろ、その準備にも取り掛かって行きたいと思います。どうぞ、今年も法縁を重ねて下さい。 本当に、新年早々にようこそおまいり下さいました。最後に、今年一年が良い年でありますよう念願して、ご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。
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〔 「住職のデジタルエッセー」2006.08.15掲載 〕 ともしびを 明るきものと 今ぞ知る 消えたるあとの 夜半の暗さに ( 甲斐和里子 )
故人は闇夜を照らす「ともしび」であったと、しみじみと思われる今年のお盆でありましょう。
人は闇夜の中で生きることはできません。葬儀より始まり、中蔭法要、一周忌法要と続く一連の仏事はある意味、「生身の人間」が、「心のともしび」となってゆくプロセスかも知れません。
「生身の人間」が、「心のともしび」となるプロセスがうまくゆかないと、そこに不安や、恐怖心が生まれるようです。
先日、あるご門徒の都会に住む親族の方からお電話をいただきました。「数年前に亡くなった母が、最近、夢の中に頻繁に出て、熟睡が出来ない。お布施を送るからそちらで供養してはもらえないでしょか?」という御依頼でした。
「親の夢を見ることは、決して、悪いことではありませんし、実家のご家族が、怠り無く仏事を勤めておられるので、供養が足らないと言うことは無いと思いますが?」と申したのですが、それでは本人の気が済まないようなので、その御依頼通りに、お寺で改めて、お勤めをしました。
現代人の不安や恐怖心は、「心のともしび」を持たないことから生まれます。御依頼を受けて、こちらでお勤めはしたものの、それによって、ご依頼人の心が安らいだのか、母親の夢を見なくなったのか、その後のことを聞いてはいませんが、供養が一時の慰めであってはならないと感じました。都会の砂漠のような環境、出来れば、仏壇をお迎えし、日々、仏さまに手を合わす生活をしてもらいたいと思いました。
このことは、しかしながら、この方の特殊な事例ではないと思います。誰も、不安や、寂しさ、悲しさを抱えて生きています。先立って往った人が「心のともしび」となる念仏相続の生活を送りたいものです。
み仏の み厨子のうちぞ 人しらぬ わが悲しさの 捨てどころなる
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