仏教讃歌![]() 〔 「住職のデジタルエッセー」2006.01.10掲載 〕 毎年、元旦の法要にお参りした人に、一年の座右の銘にしてもらおうと、ハガキサイズの法語をお渡ししています。 今年(平成18年)の法語は、「一生過ぎやすし」です。 「お正月にあげる法語だったらもっと、めでたい言葉にすら〜え〜のに」と息子から言われましたが、「そんなもんは、店でもらうカレンダーを見りゃ〜え〜じゃろ〜。お寺にはお寺にふさわしい言葉があるんじゃ〜」と押し切りました。
この言葉「一生過ぎやすし」は、蓮如上人の「白骨の御文章」〔お葬式の時などに拝読される御文章〕の一節です。この次に続く言葉は、“いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず”です。人の命はせいぜい、100年。しかも老少不定(ろうしょうふじょう)、若いからといって命の保障などありません。
仏教では「生死一如(しょうじいちにょ)」といって、生と死を切り離しては考えません。ところが現代人は、生を謳歌し、死を遠ざけるようになりました。 夕暮れ時、犬を散歩させて帰ってくると、お寺の門前で、下校途中の学生たちが立ち話をしていました。「おいおいこんな所にレオパレス〔賃貸アパート〕があるぞ」「でもやばい。前に墓がある。」「でも、家賃安いかもよ。」 ずっとそこに生活している私は、そんなことは思いもしませんでしたが、現代人にとって、墓とは、直ぐに死をイメージするものであり、覆い隠すべきものなのでしょう。 それにしても人間、どんな立派な家に住み、贅沢な暮らしをしても、所詮、最後は、墓を終の棲家としなければなりません。やはり、その厳然たる事実に気づかなければなりません。
生に限りがあることを知れば、決して悲観的になるのではありません。むしろ、限りあるいのちであると思えばこそ、この与えられたいのちを、精一杯に、悔いのないよう生き抜こうという積極的な生き方が生まれるのではないでしょうか? 「一生過ぎやすし」。だからこそ、一年を、いや一日一日を、大切に生きてゆきたいものです。
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後釜の蓋 (うしろがまのふた) 〜昭和初め 塩田作業の思い出〜 弘中 要一(釈証道) 〔下松市潮音町5-13-15〕
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井上 光子 〔 浄蓮寺門徒 : 「夕焼け小やけで 日が暮れて山のお寺の 鐘が鳴る…」 子供の頃、お寺の鐘の音は夕方 我家へ帰る時刻のように、耳にしていたようだ。梵鐘の音が、法座の知らせと耳にするようになったのは、いつの頃からだったろうか? お仏飯をお供えする、朝夕手を合わせる…これらはいつも親の姿を目にし、私たち子供も当たり前のように、一日の始まりと終わりのように思っていました。 お聴聞は若いうちよりと、常に云っていた母親でしたが、私はただ「そうね!」と、云うばかりの日々でした。自然に聴聞するご縁に遇うようになり、鐘の音に足がお寺へ向くようになった気がします。 なるほどと、うなずけることもありますが、分からないことばかり多いい私です。しかし、何か心なごむ気がします。 仏教婦人会綱領に「念仏にかおる家庭をきずき 仏の子どもを育てます」とあります。小さいときより浄土真宗のお法りの、ご縁に遇えるように願っていた親のお蔭だと思います。これからも共に救われていくお念仏の教えを聴聞いたしたいと思います。 合掌
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