からよかった 

 

だからよかった 

    怒和輝雄 (下松市美里町)

 

 平成14年11月4日、第17回全国仏教壮年広島大会において、田原総一朗氏が「時代を読む」と題して記念講演がありました。
自分たちの役にたちそうな言葉をひとつご紹介しておきましょう。それは、「だからよかった」と言うことです。
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 ヤオハンデパ−トの経営者であった和田社長は、毎日日記を書く。嫌なこと・裏切られたこと・良かったこと、悪かったこと何でも書く。そして日記の最後には「だからよかった」と書く。 
 自分は経営者・責任者だから責任を他に転嫁する訳にはいかない。同じ責任を持つならば良い体験をさせてもらったと。前向きに考えようじゃないかと思うようにした。
 これはある意味では浄土真宗で「南無阿弥陀仏」と坐ってきたが、これと似るところがあると思う。
「だからよかった」と。全部抱えて受け入れてしまう。
 和田社長は、静岡で創業し、その後世界的に拡大進出していったが、数年前に倒産した。こんな体験は、他の人は出来ない。「だからよかった」
 1回しかない人生に大成功し、大失敗をした。こんな体験をさせて貰って、「だからよかった」。
******************************************************************************  自分が現役時代にシンガポ−ル出張中、ヤオハンデパ−トで買い物をしたことがありましたので、この話には特に関心がありました。
 *「人生に無駄なことは何もない」と言われていますが、全てのことを肯定して運命を受け入れてゆくということは、なかなかよほどの覚悟がない限り出来ることではありません。後から振り返って肯定し納得することはできますが・・・。悩み苦しみの修羅場に立っていながら、その運命をすんなり受け入れることは本当に難しいことだと思います。
  「だからよかった」は、和田社長にして言えることなのでしょう。仏教の究極の境地かもしれません・・。
 *私も前向きに生きるために参考にしようと思っていますが、まず、日記からつまずいてしまいます。日記を書く書かないは二の次にしても参考になる言葉だと思っています。


 

角(かど)がとれたのは...

 

  角(かど)がとれたのは...

    清水正枝 (下松市望町)

 先日、義父が入院している同室の隣のベットにいらっしゃるご年配のご夫婦とお話する機会がありました。ベットのご主人は89歳、付き添いの奥様は90歳。毎日、息子さんに送り迎えをしてもらって、いらっしゃっています。その奥様の言われるのに、「主人はとっても人のいい、まあるい人でした。私は、三角になったり、四角になったり。その角を長年かけてようやくまるくしてもらいました。その恩を今返そうと思っています。」と、そう言いながら、ご主人の“目やに”をそっと拭いていらっしゃいました。その横顔に、胸にジ-ンとくるものがありました。
 90歳とは思えない。「気力だけです!」と言われるけど、「愛情だけです!」じゃあないでしょうか?年老いて、こんなあったかい夫婦になれたらいいなと思いました。
 


倶会一処(くえいっしょ)の世界

 

   倶会一処(くえいっしょ)の世界

    浄蓮寺住職 末武一行 〔ご法事での一口法話〕

▼お墓参りは、気晴らしではありませんので、他家のお墓をじろじろ見ながら参るようなことはありませんが、時にはじっくりとお墓の観察をされると良いと思います。

▼最近では、「〇〇家之墓」というのに混じって、「南無阿弥陀仏」という文字が刻まれたお墓が多くなってきましたが、なかには「倶会一処」というのもあります。これは、安芸門徒と言われる広島からこちらの方に伝わってきたものではないかと思うのですが。

▼「倶会一処」とは、ご法事の折によくお勤めされる「仏説阿弥陀経」というお経の中に出てくる言葉で、念仏する人は、この世を去っても、またお浄土という一処(ひとところ)で倶(とも)に会うことが出来るという意味です。 

▼浄土真宗の民俗(土着の習慣)に関する本を読みますと、今は各家ごとに墓がありますが、一昔前までは、日本の全国各地に「惣墓」と呼ばれる共同納骨所があって、そこに収める慣わしが多くあったようです。貧しくて家ごとの墓が建てられなかったこともありましょうが、みなが一緒の墓に入って、共に弔われれば良いではないかという浄土真宗の考え方がそこに強く反映していたのではないかと思います。地域や 親戚のみならず、家族関係さえ希薄になり、孤独な人々が増えてゆく中、「倶会一処」という言葉に暖かさと心強さを感じませんか?

▼ご主人の25回忌を終えられたご夫人が、こんなことを言われました。「主人は、病気がちで子どものいない私の行く末を案じて、生前は一生懸命に働いてくれました。休暇をとるのは盆と正月くらいのもので、そんな過酷な労働が災いしたのか、突然の交通事故であっけなく他界してしまいました。私は主人のお陰で、その後も何不自由もなく暮らしているのですが、主人のことを思うと美味しいものも食べられず、人に誘われても遊びにも出かけられず、ずっとつましい生活をしてきました。ただ今日まで私が生きる支えとなったのは、主人が生前二・三度ばかりささやいてくれた「お前と一緒に、お浄土に参れたらえんじゃがの〜」という言葉でした。実際、そんなことは出来もしません。もう24年間もその約束を破り続けた私ですが、お浄土に参ったら、今までの分を倍にして主人に尽くそうと思っています。その日が来るの楽しみに余生を送ります。」  

「倶会一処」の味わいを聞かされました。 この世ならず、浄土までも結ばれてゆく、そんな生き方をお互いしたいものです。