▼「涕泣(ていきゅう):涙を流して泣く

「しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。」

  (『本願寺聖人親鸞伝絵下』第六段)

〔聖人の最後にお会いした門弟や勧化を受けた老若の人びとは、それぞれに聖人がこの世におわしました昔を思い、亡くなられた今を悲しんで、恋い慕い、涙を流さぬ者はなかった。〕    

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 葬式のお葬式たる所以は〔頭の固いお坊さんは、自分が唱える有難いお経と言うだろうけれども〕何といっても、最後の別れである。別れ難く、或いは故人をおもって、止めどもない涙が流れる。

 私にもそんな経験がある。住職就任以来、相次ぐ寺の修復や境内整備に、未熟な私を助けて、身を粉にして職をまっとうしてくれた総代が死去した時の葬儀は、涙があふれてきて止まらず、まるでお勤めにはならなかった。ご遺族やご親族には申し訳ないことをしてしまったが、それがこれまで経験した葬儀の中では、もっとも印象に残っている葬儀らしい葬儀である。

 個人的で突飛な言い方かも知れないが、「お釈迦さまの涅槃」、「親鸞さまのご往生」こそ仏教徒、真宗門徒の理想のすがたであり、それに涙するのがまさに仏教徒、真宗門徒の葬儀ではあるまいか。

 

▼「貰い涙(もらいなみだ)」:人の涙が感染する

   

 私は涙腺がゆるいのか、涙がよくでる。去年はテレビを見ながらよく泣いた。NHKの大河ドラマ「利家とまつ」しかり、連続テレビ小説「さくら」しかり。 〔そんな姿を女房には見せられないので、なるべくテレビは一緒に見ないようにしているのであるが〕けれども何と言っても泣けたのは、北朝鮮から五人の拉致被害者が帰国して、肉親に再会した時である。故郷に帰って親戚・友人に再会した時にも泣けた。恐らくは、テレビ画面を通してではあるが、これほどまでに日本人の多くが貰い泣きをした年はなかったであろう。日本も社会的には色々の問題があるが、人の喜びや悲しみに共感できる涙が出るうちはまだまだ大丈夫であろう。

 

 涙の成分は、98%が水分で、その他、タンパク質、脂質、グルコース、塩化カリウム、塩化ナトリウムなどが残りの2%を占めている。その結果、なめてみると薄い塩味がするが、それでも涙の原因によっては、多少、味が違うそうである。

 私たちが涙をながすきっかけは大別して二つある。ひとつは、タマネギを切ったり、煙を顔に浴びたりして、異物が目に飛び込んだ時である。この場合に、これを排除しようとして涙がでるのは、“単純な涙腺の反応”である。

 もうひとつは、つらい出来事に遭遇したり、また反対に嬉しいことに出会って、強い感情的刺激が外部から加わった時など。これは、“自律神経が興奮して、涙腺のコントロールがきかなくなった状態”である。

 ところで、同じ自律神経の興奮による涙と言っても、感情の種類によって、涙の量、味、はたらきは微妙に違うそうである。それを図示すれば以下のようになる。

 上記のうち、喜びによって生じる涙は、「非常に(少ない)」と言った方が良いようであるが、ただその感情も余りに強すぎると、涙腺のコントロールがきかなくなって反対に「滂沱(ぼうだ)の涙」となる。

 

空涙(そらなみだ)・空泣き 見せかけのなみだ

       涙がでるのは、物理的な刺激による涙腺の反応か、あるいはまた、心理的な刺による自律神経の乱れである。出そうとしてもなかなか出せるものではない。けれどもさまざまな状況から、泣きっ面をした方が良いような場合だってある。そんな場合には、(別にお勧めする訳ではないが)次のような手を使うとよい。

  泣き顔というのは、目が腫れた状態であるが、正確にいうと腫れるのは目ではなく、まぶたである。目の周辺の皮膚(まぶた)は、毛細血管が発達していて非常にデリケートである。そこを強くこすると、こすられたところに血液が集中し、腫れたような状態になる。更に、血液だけでなく、血液中の水分である組織液もが出てきて皮膚の下にたまり、それによってむくんだ状態になる。これが泣き顔である。 ようするに、泣きっ面をする方法とは、まぶたを強くこすって、目を腫らした状態を作ることである。彼氏を振り向かせようと思うものはこの方法を使えばよい。

   ただし、こすり過ぎて、余りにもまぶたが腫れあがると、“せつなさ”よりも“情けなさ”を訴える顔となって、かえって逆効果になるやも知れないから要注意。  

 まぶたをこすれば泣き顔は作れるであろうが、それは決して、美しい泣き顔ではない。美しい泣き顔とは、〔女優や女性タレントがよくやるように〕たとえ目頭が潤んできても、決してまぶたをこすったりせず、ハンカチなどで軽く涙を吸い取るようにすれば、見苦しさがなく、適度に悲しみをさそって美しく見えるのである。

 けれども、もともと美しい人はそのような演技はいらない。泣いても美しいのである。ちなみに、美人の涙は紅涙(こうるい)と言うそうである。では、美人ではない普通の女性がながす涙に名前はないのかと反発する御仁もあるやも知れないので、念のため申し添えておくと、女性がさめざめと泣くさまは雨雫(あめしずく)と言うそうである。情感のある言葉である。ただし、あくまでも“さめざめ”とでなければなりませんので、ご注意ください。

 

 

鬼哭(きこく):浮かばれぬ死者の魂が泣くこと

                                    中国で鬼(き)とは、一般に死者の霊のことを言うが、地獄絵等に見るいわゆる、獄卒は人に危害を加える“悪鬼”であり、飢えて供養を待つ死霊は“餓鬼”と言う。 日本の<おに>は、人の目には見えないで、種々の災禍をもたらす、猛々しく恐ろしい存在一般を<おに>と呼び、それに中国や仏教で言う「鬼」を当てたようである。

 「鬼の目にも涙」ということわざがある。それはどんな極悪非道な者にも一分の情けはあるという意味であるが、「鬼哭」とは恨みを抱いたまま、この世に未練を残したままで冥界に旅立っていった魂の叫びである。こちらの方が哀れを誘う。このような鬼こそ、念仏によって救われていかなければならない。そう言えば、日本の鬼(おに)だって、自分が好き好んで鬼に成った訳ではあるまい。節分で「福は内、鬼も内」と言って、豆まきをするところがあると聞いたが、実に良い話で涙が出てくる。

 

摂取不捨(せっしゅふしゃ):喜び、悲しみ、怒りの涙を摂(おさ)め取る。

 「鬼の目にも涙」があるなら、ましてや、仏にはと思うが、『浄土真宗聖典』のどこを探しても、仏の側に「涙」とか「泣く」という言葉は見出せない。仏は(人の)涙を超えた存在なのであろう。だからこそ、(人の)涙を受けとめることができるのである。そのはたらきを“摂取不捨”と言う。

                  「 十方微塵世界の

                      念仏の衆生をみそなはし

                  摂取してすてざれば

                      阿弥陀となづけたてまつる 」

                                                                          (「浄土和讃」弥陀経讃)

 人生に涙はつきものである。泣きたいときにはおもいっきり泣けばよい。それを受けとめてくれるものもこの世にはある。

 

 

 

    泣きながら御戸をひらけば

       御仏はただうち笑みてわれをみそなはす

 

  御仏の御厨子のうちぞ

       人知らぬわが悲しさの捨てどころなる

 

  憂きことを思ひいでつつ泣く人は

       わすれ草咲くわが庵を訪(ともら)へ 

                                                       甲斐和里子

 

 

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