浄蓮寺再発見

再発見の門主御影@

准如上人・良如上人御影
  

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再発見の門主御影(ごえい)@

 平成17年(2005)夏に浄蓮寺の本堂裏の押入れから発見されました御影(肖像画)が、この度(2007夏)、個人のご協力により、仕立て直しされ、立派になりました。明年の永代経法要から、この法要の度に、披露する予定です。浄蓮寺 〔と同時に、本願寺〕の歴史を物語る貴重な資料ですので、その全てを、ネットでも紹介します。

 准如上人(じゅんにょしょうにん:1577〜1630) 浄蓮寺が創建された(1610)当時に、本願寺の門主であった方です。門主の御影は、「前住」 〔遺影〕として掛けますので、この御影が掛けられていたのは、次の良如上人代、浄蓮寺の住職は、二世の宗甫であったと思います。

 准如上人は、 顕如上人〔大阪の石山本願寺で、織田信長と戦い、和睦し、寺基を次々に移転した。後に豊臣秀吉から寄進を受けて、本願寺は京都・堀川の現在地に落ち着いた。〕の三男でありましたが、長男が東本願寺を分立しましたので、(西)本願寺の後継となりました。

 江戸に開かれた新しい徳川幕府の政治に対応するために、元和3年(1617)に、浅草横山町に御堂を建立しました。これが、現在の「築地別院」の前身です。ところが、この年の暮、本願寺は火災で、阿弥陀堂と御影堂、対面所などほとんどの建物を焼失してしまいました。時に、准如上人は41歳。内外の重要な課題を処理しながら、御堂の再建を進められましたが、その全てが完成したのは、続く良如上人の代です。

 良如上人(りょうにょしょうにん:1612〜1662)  は、准如上人の次男です。前の代で、坊舎をことごとく焼失していたので、再建に尽力されました。 この時に再建された御堂が現在の「御影堂」です。准如上人の好学の素意を受け継いで、後の「龍谷大学」の前身となる「学寮」を創設 〔寛永19年(1642)〕されました。また、幕府の仏教統制政策に対応して、本末制度・触頭制度・檀家制度などの近世の本願寺教団の組織整備をされたのもこの上人です。

 

 

再発見の門主御影A

文如上人・本如上人御影
  

再発見の門主御影A

 本堂の内陣は、ご本尊を中心に、向かって右に親鸞聖人、左に蓮如上人の御影が掛けてあります。又、ご本尊の御厨子(御宮殿:「ごくうでん」と言う。)の左右に、法中(僧侶)が座る畳 〔回畳〕があります。右の親鸞聖人の側を祖師前(そしぜん)と呼び、左の蓮如上人の側を御代前(ごだいぜん)と呼びます。
  実は、この蓮如上人の御影は、歴代門主の代表として掛けるのであり、本願寺や、各地の別院では、ここに「故前住上人」の御影が掛けてあります。こちらの側の畳を「御代前」と呼ぶのは、「歴代の上人の前」という意味からです。 今回発見された御影は、嘗てここに掛けてあったもので、浄蓮寺は、本山の正式な荘厳(しつらえ)に準じたものであったことが想像できます。

  文如上人(もんにょしょうにん:1744〜1799) 病身で在職期間は、十年ばかりであったそうですが、歴代門主の中でも、特に芸能の道に優れ、書道・和歌・漢詩・管弦鼓笛・茶道等、多岐にわたって足跡を残しておられます。

  本如上人(ほんにょしょうにん:1778〜1826) 前々代の法如上人から続く教学論争〔三業惑乱=本願寺の筆頭学僧の教学理解の誤りに、在野の研究僧達が異議を唱え、糺した事件〕に終結を図られました。
  因みに、浄蓮寺の現本堂は、この時代に再建された(文化元年・1804)ものです。

 

 

再発見の門主御影B

広如上人・明如上人御影
    

再発見の門主御影B

 今年(平成20年)の永代経法要に、「浄蓮寺寺宝展」として、これまでHPでも紹介して来ました本願寺門主の御影を展示しました。実物の御影は、歴史の鼓動を直接に伝え、多くの参詣者に深い感銘を与えました。

  広如上人(こうにょしょうにん:1798〜1871) 幕末から明治にかけて、日本の政治・社会が激変する時代、本願寺の財政再建に当たられ、未曾有の改革を成し遂げ、大政奉還した朝廷に一万両もの献金をするほどの資力を得ました。

 明如上人(みょうにょしょうにん:1850〜1903) 激動の時代、近代社会に対応した教団再編に、その生涯を尽くされました。その事跡は枚挙にいとまがありません。明治政府が神道の国教化を進める中、上人は多くの人材を海外に派遣、海外の宗教事情を視察させ、これらの人々と共に、遂に政府に親教の自由を認めさせています。日本で最初の選挙による議会(宗会)や、教区・組といった、現在も行われている地方行政組織が生まれたのはこの時代です。