親鸞さまは、9才の春、出家得度してお坊さんになられた。その時の心境を、『御伝鈔』には、「仏法興隆の心が芽生え、衆生利益の縁がもよおした。」とあるが、かのお釈迦さまですら、王位継承を断ち、城を捨てて、仏になるべく修行生活に入ったのは29才の時である。わずか小学校3年生くらいの子どもが、そんな心を起こす訳はない。

 下級貴族の家に生まれ、幼くして、母に 死別し、父とは離別を余儀なくされた親鸞さまは、学問によって身を立ててゆくしかなかったのである。当時、出家(僧)とは、そのコースのひとつであり、ごく自然にお坊さんになられたのであろう。

 インドをはじめ、東南アジアの仏教諸国では、幼い時期に剃髪得度して僧になり、修行を終えて後に、また家にもどり、身を固めて家庭生活、社会生活をおくり、それが済んだら、また完全な出家の生活に入るという習慣がある。これが一家繁栄のために行われているというが、人間の一生をただ漫然と、また、がむしゃらに生活に明け暮れして過ごすというのではなく、自分や家族や、社会を静かに見つめながら生きてゆく、この出家の生活というのは、とても貴重なことである。

 定年退職して、年金で生活に不自由はないが、さりとて、女房には粗大ゴミ扱いをされ、生きるハリもない日本のサラリーマン諸氏がたも、この出家という生き方を目ざしたらどうであろう。

 それにしても、日本の今の僧侶は、みな職業としての出家である。職業意識よりも、人間の理想の生き方として、自らが求道してゆく態度がなければ、人にそれを薦めることはできない。今は、僧侶こそ出家しなければならないのかも知れない。