邂逅(かいこう)とは、思いがけない出合いである。たまたま、偶然に出遭ったからこそ運命が拓けたということはよくある。親鸞さまと師の法然さまの出遭いはまさに邂逅であった。親鸞さまは、生涯、その不思議な縁をよろこび、人にも語った。法然さまを生身の阿弥陀さまと思い、智慧の勢至菩薩さまと仰がれた 。

 比叡山での仏道修行は20年間。親鸞さまはまじめであり、その修行によく耐えた。けれども、実感として、さとりが開けない。当時、仏教界は、出自によって位が決まっている閉鎖社会である。民衆は、戦乱や天災に苦しみ、さとりとは無縁である。民衆の中で、民衆と共に歩めるさとりへの道は無いのか?悩んだあげく、山を下りて、法然さまのもとへ駆け込んだ。

 法然さまは、お釈迦さまの教えの中に、阿弥陀さまの本願を信じて、念仏を称えれば、浄土に生まれて、さとりを開くことができる道〔浄土門〕があることを発見しておられた。特別の修行はしなくとも、家庭生活を営み、社会の中にあって労働をしながらも、ほとけの道を歩むことができるというこの教えは、多くの人びとを惹きつけ、法然さまのところへは、色々な階層の人びとが集まっていた。

 親鸞さまの、「例えば、お坊さんが結婚をしても、さとりへの道は歩むことができるでしょうか?」との素直な質問に、法然さまは、「この世を過ごすには、念仏が称えられるように過ごしなさい。結婚して念仏が称えられるのなら結婚をしなさい。もし、結婚が念仏のさまたげになるのなら、独身のままで、過ごしなさい」(和語燈録)とやさ しく答えられました。

 「これぞ、私が求めていた教えだ、たとえ騙されて地獄に落ちようとも、決して後悔はしない、法然さまについて行こう!」と親鸞さまは決心された。

 ところが、念仏の教えは、当時の仏教界やそのパトロンである為政者たちにとっては、民衆を扇動する危険思想であった。その張本人の法然さま、そして親鸞さまは、その罪によって、弾圧をされ、都を遠く離れた田舎(親鸞さまは越後の国:いなかとは言っても国府があるところだから、まったくの荒野ではなかった筈である。)へと流されるのである。