2013/10.28・29 第24回聞法旅行で、比叡山まるごと(東塔・西塔・横川)参拝しました。

  浄土真宗ゆかりの祖師方の墓所を、聞法旅行でご門徒のみなさんと一緒に訪れたいというのが、この近年の私(住職)の願いでしたが、2年越しでようやく実現しました。昨年は大阪・磯長(しなが)の聖徳太子御廟、今年の聞法旅行では、親鸞聖人の京都・東山の大谷本廟、そして滋賀・比叡山横川の源信僧都の御廟とお参りすることができました。
 最初は、御廟だけをいっきょに参拝することを考えていましたが、昨年は聖徳太子ゆかりの奈良の寺々巡り、そして今年は比叡山をまるごと参拝して、源信僧都の御廟へと時間をかけて、ゆっくり回りました。各祖師方の置かれていた歴史と環境をじっくり辿ることが出来て、かえって良かったと思います。
 今年の聞法旅行のテーマを「またお浄土で会おうや~」と、山口県の方言で表現してみましたが、比叡山の源信僧都の墓所を訪れたみなさんは、正にそのことを実感されたと思います。ともすれば暗い墓所のイメージが、「倶会一処」(お浄土でまた会える)の安らぎの場所であると、納得されたと思います。こんな気持ちは、ただの観光旅行では味わえないと、この聞法旅行の素晴らしさを改めて感じてもらえたと思います。
 比叡山は、バスガイドでは十分な説明を得ることが出来ません。幸い平安観光さんの手配によって今回も、比叡山の内情に詳しい観光ガイド・比叡山セールスマネージャー(良い肩書ですね)の竹内寿典さんに全山を丁寧に案内していただきました。本当に有難うございました。

 
 以下は、「旅のしおり」として編集したものです。個人で旅をされる場合の資料にでもしていただけたらと思います。なお、今回の聞法旅行では比叡山の他にも、上記記載の京都・東山の浄土真宗本願寺派・大谷本廟、承元の法難で有名な住蓮、安楽ゆかりの京都・鹿ケ谷の安楽寺、親鸞聖人の吉水時代、この地に庵をむすび、ここから吉水の法然上人の禅坊へ通ったという真宗大谷派・岡崎御坊も参拝しましたが、写真掲載のみにさせていただきます。
 ●延暦寺(えんりゃくじ) 滋賀県大津市坂本本町 天台宗
 
 京都と滋賀にまたがる比叡山は、周囲100キロにもおよび、東塔・西塔・横川の三塔に分かれ、さらに東・西の両塔にそれぞれ5谷、横川の6谷と合せて16谷より成り、老杉古桧は谷々をうずめる。
  この山を開いた最澄(さいちょう)(767~822)は、延暦4年(785)春、南都東大寺の戒壇に登って具足戒をうけたが、その年の7月、にわかに世の無常を観じ、比叡山にのぼり、樹下石上の生活に入った。その入山に際し「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」と願文に述べたが、そこに若き最澄の燃ゆるが如き志念を憶わずにはおれない。
  延暦7年(788)延暦寺は創建されたが、そののち入唐求法の旅にでた最澄は、天台山にのぼって円・密・禅・戒の四宗を伝えて帰国、大乗戒壇を設立するため、その生涯をつくした。その折あらわした学生式のなかに「一隅を照らす国宝」を養成する教育方針をのべた。かくて、円仁・円珍らの直弟子をはじめ、のちには良源・源信がでるなど、論・温・寒・貧の学問・修行の道場として栄えた。こうした伝統から、鎌倉仏教を開いた法然・栄西・道元・日蓮を輩出した。こうした中でわが親鸞聖人も9歳より29歳までの20年間、この学山でひとすじに精進した。
  山の中心でもある根本中堂は、かつて最澄が薬師如来を本尊としてまつった一乗止観院をつぐもので、いまも不滅の霊灯は世の盛衰を眺めながら燃えつづけている。ここから、無動寺谷にそって急坂を下り、明王堂に達すると、その先に大乗院がある。この大乗院については、高田正統伝に「十歳:正月十七日、門主慈円僧正勅命に因て叡峰に登り、一七日天下静謐の御禱のことあり、今日すなわち範宴御同道にて、東塔無動寺大乗院に登り、四教義を読みはじめたまう」とあって、若き親鸞聖人は出家の後ここで勉学されたとつたえる。今も、その折の持仏といわれる鉈作の阿弥陀像と身代りの蕎麦喰の木像が安置されている
比叡山
 
  比叡山は大きく東塔、西塔、横川の三つに分けられる。これは地理的区分だけではなく、それぞれに異なった生い立ちと歴史をもっている。
  根本中堂は東塔というより延暦寺全体の中心。無動寺谷の大乗院は東塔に属し、根本中堂からは1.4キロのところにある。途中「蕎麦喰木像明王堂」の石碑がある。
  西塔には、「聖光院跡、聖人住持の寺」と刻んだ小さな石碑がある。俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれる朱塗りの建物で、法華堂と常行堂を渡り廊下でつないだものである。その廊下をくぐれば西塔の中心、釈迦堂へ出る。
  奥比叡の横川へは西塔経由でバスも出ているが山道を歩くのには恰好のコース。1時間半ほどで朱塗りの目をうばうばかりのあざやかな横川中堂が見える。そこを更に進んで右に折れると山の念仏を弘めた恵心僧都源信の恵心堂が建っている。

 〔当日、西塔を訪れると「ただいま常行堂・法華堂において修行中ですので、お静かにお願いします」という看板が立っていました(写真)。比叡山には何度か、お参りしたことがりますが、このように修行している光景に出合ったのは初めてです。何かリンとした張りつめた空気がただよい、いかにも比叡山らしい雰囲気を肌に感じました。〕

 *論湿寒貧(ろんしつかんぴん)
湿気の多い寒冷な山中で、清貧に甘んじ、法華経の議論に励んで修行せよという意。これは比叡山における修行の本質を物語るもの。比叡山の修行の中でも、特に厳しい「三地獄」と呼ばれるものがある。暇があれば掃除をするという浄士院の掃除地獄、無動寺谷の千日回峰行、読経に勤める横川の看経(かんぎん)地獄。                            
 ◇横川(よかわ) 
  三塔中、もっとも奥にある横川(よかわ)はさきごろ再建された中堂を中心に、今も静寂そのもの。東・西の両塔が栄華をきわめた時にも、ここだけはなお本来の面目をたもち、とくに山の念仏は、首楞厳院(しゅりょうごんいん)の源信によってひろめられ、その基礎がさだめられた。在叡中、直接の記録を何一つ見いだしえない親鸞聖人について、内室の恵信尼の消息のなかに「殿のひへのやまにだうそうつとめておはしける」という一節によって、ある時期、常行堂の不断念仏僧として「堂僧」を勤めていたことが知られる。そして、それは慈円が検校であった横川の楞厳三昧院の常行堂でのことと思われる。すなわち、伝絵に「とこしなへに楞厳横河の餘流をたゝへて、ふかく四教円融の義に明なり」と載せるのは、こうした事情を語るものであろう。その横川はかつて源信(942~1017)が母の訓誡にしたがって一筋に菩提を求め、「予が如き頑魯(がんろ)の者」という立場から「極重の悪人、他の方便なし、ただ念仏して極楽に生まる」ことを明かすべく、多くの経釈の要文を集めて著わした往生要集(おうじょうようしゅう)誕生の地である。したがって青年親鸞はこの地において、源信とその母とを想いながら、真剣に自己をみつめたに違いない。

 〔今回の旅行の所期の、また最後の目的地であった横川にいよいよ到着しました。横川中堂より、源信僧都のお墓まではかなり距離があります。観光地ではないので、訪れる人のほとんどない場所に、年配の参加者もありましたが、皆さんよくお参りされました。でも、お参りされた価値は十分あったと思います。途中、「恵心(源信)堂」に立ち寄りました。普段は戸が閉まっています。ガイドの竹内さんの特別の計らいで、戸を開けてもらい、お勤めをさせていただきました。思いがけないことで、感激しました。ナンマンダブ、ナンマンダブ。〕

  源信僧都とそのお墓については、当ホームページの「比叡山横川・恵心僧都・源信の墓を訪ねて」をご覧下さい。詳しいことを載せています。


◎親鸞聖人の在叡20年
 
 比叡山での修学時代、一体どのような生活をしていたか。このことは親鸞聖人の求道をうかがう上に大切な問題であり、聖人みずから何も語っていないだけに慎重に考えねばならない。古くは、覚如上人の『報恩講式』や『親鸞伝絵』、それに存覚の『嘆徳文』によって、その修学生活を想像してきたが、今日では大正10年に発見された恵信尼の書簡により「堂僧」を勤めていた事が知られ、学生や堂衆とは異なる堂僧の研究がすすめられた。
  堂僧とは、常行三味堂に勤仕して不断念仏を修する僧で、そのころ学生と堂衆との抗争を離れ、仏にかしづき法に親しんだ親鸞聖人の姿を偲ぶことができよう。もっとも20年という長い期間、この学山で道を求めたからには、のちに覚如上人や存覚が語るごとく研究に精進したことは勿論であって、浄士真宗の大綱をまとめた『教行信証』を熟読すれば、おそらく在叡時代に学んだであろう、字訓釈・字象釈・転声釈といった叡山での学風が数おおく知られる。また最澄の『末法燈明記』を引いて、末法における沙弥生活に心ひらいた事は注目すべきであって、まじめに修学すればする程、どうしても山から下らねばならなかった求道の必然性も、おのずから感じられるであろう。

◇大谷本廟  〔京都市東山区五条橋東6丁目514〕

◇安楽寺 〔京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21 浄土宗〕