西本願寺(にしほんがんじ)〔京都市下京区堀川通花屋町上ル〕

   親鸞聖人の末娘・覚信尼が京都東山の大谷に聖人の遺骨を改葬して廟堂を設けたのに始まる。本願寺は戦国時代、寺基を京都から吉崎(福井)、山科(京都)、石山(大阪)、鷺森(和歌山)、貝塚・天満(大阪)と次々と移転することを余儀なくされたが、天正19年(1591)、豊臣秀吉の寺地寄進により現在の地に落ち着いた。

  西本願寺の中心的な建物は“御影堂”と呼ばれ、寛永13年(1636)に建立された。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代の門主の画像、左右の余間に九字十字名号を安置する。御影堂に向かって右側の“阿弥陀堂”は本堂であり、宝暦10年(1760)に再建された。中央に阿弥陀如来の木像、左右に印度・中国・日本の六高僧、左右の余間に法然上人・聖徳太子の画像を安置する。〔現在、御影堂は平成大修復のため仮設屋根ですっぽり覆われ、立入禁止になっている。内部の親鸞聖人の木像等は、阿弥陀堂に移され、法要等行事・お勤めは全てこちらで営まれている。〕

   浄土真宗本願寺派(西本願寺)の末寺は全国に約10,400ヶ寺。本願寺住職は第24代即如上人(大谷光真)。本願寺ホームページ http://www.hongwanji.or.jp/

 

◆本願寺御正忌報恩講

 報恩講(ほうおんこう)とは、親鸞聖人のご命日にあたって、そのご恩を報謝する法要である。

 毎年、1月9日逮夜から、16日日中までの七昼夜つとめられる。

 本願寺第三代覚如上人が、親鸞聖人三十三回忌にあたる永仁 2年(1294)に、『報恩講式』を作られて法要の次第を定められ、聖人のお徳を偲ばれたことに始まる。

 

 法要期間中には、本堂内陣余間に、聖人のご一生を絵で綴った「御絵伝」(ごえでん)が掛けられ、そのナレーションと言うべき「御伝鈔」(ごでんしょう)が読み上げられる。

 おつとめは「正信偈」を始め、朝、昼、夜とさまざまな作法の勤行がつとめられ、また、期間中、御堂内、総会所、聞法会館等でご法話が行われる。

 本山では、御正当の忌日に法要をいとなむので御正忌報恩講(ごしょうき…)という。また、一般寺院の報恩講は、本山より日時を早めていとなむので御取越(おとりこし)といわれる。

 

 この度の「飛騨古川町 三寺まいり」に先立って、私たちは前日、京都に一泊してご本山の報恩講法要にお参りをしました。右の写真は、その際、帰敬式を受けられた人たちです。「法名」をいただかれ、真宗門徒としての決意を新たに、やや緊張した面持ちで、カメラの前に立たれました。

 厳寒の京都。法要中は、御堂内に長時間座わらなければなりません。それに慣れておられる人たちは、マットを持参して、座布団にしておられました。宿の人、ちょっとアドバイスして下されば良かったのに!