1999(平成11)年6月10日〜14日、山口教区美祢西組の訪中団に同行させていただき、 中国浄土教のふるさと・玄中寺に参拝しました。このページはその訪中の旅行アルバムです。
   このページを開いて下さった方は、アルバムをご覧になる前に、 予備知識として中国浄土教のことを少し知っていてもらえたらと思います。より一層、中国に対する興味が湧いてくると思います。
〔中国浄土教を大成された三人の高僧方は、浄土真宗寺院の本堂余間に掲げられて います「七高僧御影」の内、中央の三人の方々です。こんどお寺に参られたときによ〜くご覧下さい。〕




玄中寺地図〔山西省交城県/太原より車で1時間〕




玄中寺ゆかりの三高僧
曇鸞大師【どんらんだいし】(476〜542)

中国北部、五台山の近く雁門の 生まれ。
はじめ、仏教研究を続けるためには先ず、長生きをしなければいけない、ということで仙術に親しんでい たが、北インドから来た訳経僧・菩提流支に会って、「少々長生きして何になる。すみやかに生死解脱の法を求めよ。 限りない生命を得る、真の不死の書はこれだ。」と『観無量寿経』を示され浄土教に帰依した。
以降、天親の 『浄土論』を解説した『浄土論註』を著す一方、中国の民衆に称名念仏の素晴らしさを説いた。
道綽禅師【どうしゃくぜんじ】(562〜645)

曇鸞大師没後20年、太原の近くで生まれた。 少年時代、北周の武帝は仏法をきらい、仏教徒を迫害したが、やがて随の世となり、再び仏法が興隆すると、彼の温厚で 礼儀正しい人柄は、深い学識とあいまって、多くの人びとから慕われた。たまたま立ち寄った玄中寺で、曇鸞大師の碑文 を目にし、大師が仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰したことに強い衝撃を受けた。「釈尊が入滅してすでに千五百年、 末法の今日、いかにして正しいさとりを完成させる修行ができようか。私も聖道(しょうどう)自力の道を投げすてて、浄土 の他力の教えに帰依しょう。」と、それまで属していた涅槃宗を離れ、玄中寺に移り住んで、念仏生活に入った。
禅師の教化により、念仏は一般の老幼にまで及び、国中に広まった。『安楽集』を著す。
善導大師【ぜんどうだいし】(617〜681)

泗州の生まれ。幼くして出家、三論宗に入り、 『維摩経』や『法華経』を学んだ。しかし、末法の世にかなった法を求めるなかで、玄中寺の道綽禅師に会い、弟子となる。
その後、善導は唐の都・長安(現在の西安)に入り、光明寺に住んで、広く大衆に門戸を開き、念仏をもっぱら勧めた。 群参するもの限りなく、「長安城中、念仏に満つ」といわれるほどであった。
『観経疏(かんぎょうしょ)』を著わし、 これまでの『仏説観無量寿経』についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の人々のための仏の本意であることを明らか にした。後に法然上人は万民救済の道を求めて悩んでいるときに、この『観経疏』を読んで、忽然としてさとるのである。


 

旅行アルバム Topへ