仏の子を育てよう

 

 仏の子を育てよう

  浄蓮寺住職 〔ご法事での一口法話〕

 最近、地震が頻発しています。私たちも身近に体験しました。
  福岡県の玄界灘を震源とした地震の時、私はちょうどお葬式の最中で、これからお勤めを始めようとした矢先でした。

  自宅の葬儀でしたので、前の経机に立ててあるロウソクの火を思わず消しそうになりました。参列者の中から、「ワー、キャー」という悲鳴が沸き起こりましたが、そんな場面で出ても可笑しくないような「ナンマンダブ ナンマンダブ」という声は一言も聞かれませんでした。〔これを「カミナリ念仏」と呼びます。何か、怖い体験をした時、思わず出てしまう“神頼み的念仏”です。但し、念仏の称え方として、真宗教学的に正しいものではありまあせん。〕もはや、カミナリ念仏も出ないような世の中になったのかと、いささか、複雑な気持ちになりました。

 「地がくるえば地震、人がくるえば鬼となる」と言う言葉があります。最近では、地だけではなく、人もおかしくなっていますね。人を殺傷することが日常化し、しかも、単に人殺しがしてみたかったという遊び感覚の者もいます。

 地が揺らぐ・くるうというのは、地下に活断層という要因があるからでしょうが、人がくるう・鬼となるというのも、それを起こさせる原因・環境があるからです。

 仏教は人を仏・ブッダ・覚者にする宗教です。

 日本では、お寺に仏さまがおられるだけではなく、家庭にもお仏壇があって、仏さまのお育てを受けてきました。

 「舌もまだ まわらぬ乳児も 御仏の み名を呼ぶなり 母を真似つつ

                                            甲斐和里子   

 幼い子が、お母さんを真似つつ、もみじのようなちいさい手を合わせ「まんまんちゃ あ」とお念仏しているすがたを詠んだものです。

 昔はどこにでもあったであろうこの情景は、お仏壇のない核家族の家庭では、生まれません。親の目の届かないところで、子はゲームの鬼に育てられています。人が狂うはずです。

 家にお仏壇があり、手を合わす環境が整っていることは考えてみれば大変素晴らしいことです。そのことをもう一度思い起こし、お念仏申す生活を送りたいものです。
 

 

 親ごころ

 

親ごころ

 浄蓮寺住職 〔ご法事での一口法話〕

「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」
 吉田松陰の最後の言葉、辞世の句です。
 「親思う心にまさる親心」親を思う子の心以上に、子を思う親の心は深いものであるという意味です。

 今春、大学に入学した息子から、連休明けに、突然、父の日、母の日のプレゼントが送られてきました。
 熨斗の表書きに「お父さん、お母さん いつもお世話になります。」と書いてあります。これまで、余りプレゼントをしてくれるような子ではなかったので、驚きましたが、遠くに下宿することになって初めて、親のありがたみが解ったのかな?と思いました。
 「灯台下暗し」と言いますが、案外と近くにいると、互いに、その存在の大きさに気づかないものです。
 息子が下宿をし始めた当初、家内は、毎日のように電話をしていました。「食事はどうしているの?」「学校にはちゃんと行っているの?」「友達はできたの?」「クラブに入ったの?」等々、延々と20分も30分も話をするので、「もうええ加減にせいよ!電話代だってバカにはならんぞ!」と私がなじると、「私はメールが出来ないのよ、電話くらいいいじゃないの」と言って、その後も、今度は、私に隠れて電話をしているようです。
 親と言うのは有難いものですね。

 浄土真宗のご本尊・阿弥陀さまのことを、昔から、私たち門徒は親しみをこめて「親さま」とか「み親」と言ってきました。
 その親さまは、ご覧になればお解りになると思いますが、他宗派のように座ってはおられません。立ち姿です。しかも、ご絵像ではよく解かりませんが、お木像だと前かがみになっています。身を乗り出して救おうとされているお姿です。
 子が救われないと、私も助からないと身を乗り出した親の姿です。

 そのようなお姿を拝するにつけ、み親のお慈悲の中に、いつも生かされている私であったと気づかされ、「ありがたい」「もったいない」と報謝の念仏を申する生活を送らせていただきたいものです。