浄蓮寺再発見2

    和田利右衛門の石燈篭

 浄蓮寺の本堂の両脇に、「和田利右エ門平盛房」と大きく書かれた石燈篭が立っている。

 和田利右衛門は、徳山藩士で弓持役、一五石取の下級武士であった。

 この利右衛門が寄進した石造物は、燈篭、鳥居、水船、宝塔等多様であり、東は高森から西は山口まで、山口県内30ヶ所の神社やお寺に及んでいる。また、この寄進は文政二年(1819)から文久二年(1862)まで、延々44年間にも亘って続けられた。〔浄蓮寺の燈篭は、文久元年十一月と記載されている。〕

 たかだか一五石取の下級武士が、莫大な費用のかかるこのような寄進をどのような訳あって行ったのかについては、次のような物語が伝わっている。

「ある夜、虚無僧姿の旅人が一夜の宿を乞うたために泊めたが、この男が大金を持っているのに目がくらみ、利右衛門は男を殺して金を奪い、死体を庭に埋めた。

 以来、屋敷からは真夜中、異様なうめき声が聞こえ、次々とこの家に不幸が続き始めて、妻は発狂し、ついに狂い死にした。そして子供は疫病で死に、虚無僧を埋めた庭は雨が降っても不思議に土が濡れなかったという。

 このうわさが殿様の耳に入り、利右衛門は免職となり、自宅に閉じこもったが、良心の痛みに耐えかねて、高僧を訪ね自分の罪と苦悩を打ち明けた。すると、高僧は私財を投げ出して、神社やお寺に寄進を続ければ、気も晴れて救われるだろうと教え、それによって利右衛門は前非を悔い、次々に寄進を続けたという。」

           (『新南陽市の民話と伝説』)

 「和田利右衛門の石燈篭」は、一時の過ちとは言え、一生を懺悔に生きた人間の所産である。それはまたそれで尊い生涯であったとは言えまいか。

       〔『徳山地方郷土史研究』第9号:清木素「和田利右衛門の寄進石造物の追跡」参照〕

 

  寺紋の由来 

 山号の無いお寺と言うのは、無いが、寺紋の無いお寺は、案外と多いようである。

 浄蓮寺には、ちゃんとした寺紋があり、本堂の柱や、瓦等至る所に配されている。寺紋入りの門徒式章もある。 

 ところが、不明の致すところで、その由来が解らず、先の本堂修復記念の小冊子には、南無阿弥陀仏の六字の名号から来ているものであろうと、こじ付けのようなことを記した。

 でも、不思議な因縁で、親戚に、宍戸家出身の者がいて、そこから、この謎が解けた。

 この紋は、「洲浜桔梗(すはまききょう)」と言い、宍戸家の家紋である。  

 宍戸家は、毛利元就の娘・五龍が嫁いだ家で、毛利氏一門として栄えた。防長へ居を移して後は、最初は防府の右田を、後には熊毛町(現周南市)の三丘を所領とした。

 浄蓮寺の開祖は、毛利に敗れて出家したが、その後、謂わば敵方ではあるが、宍戸家がバックアップをして、お寺の創建と護持に尽力をしてくれた。その功績を讃えて、宍戸家の家紋を、寺紋としたのであろう。

 因みに、同じ都濃東組内の正覚寺も、この紋を寺紋としている。