浄蓮寺再発見6

浄蓮寺第11世諦観御影
  

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 浄蓮寺第11世諦観御影

 前住職の第10世諦恵が早世したために、中継ぎとして浄蓮寺に入寺されました。
 師は実乗、僧亮、武溪とも呼ばれました。安芸国に生れ、佐伯郡二十日市蓮教寺の衆徒(所属僧侶)でありました。大瀛(だいえい)和上の門に入り、宗学を究め、門下十哲の一人に数えられるに至り、さらに上京し、学林に懸席しました。
 文化元年、三業惑乱〔宗義論争〕裁定のために、師匠の大瀛和上が江戸奉行所へ赴くのに、京都より同門の普厳と共に同行し、安心(あんじん)の糾明に、調書の筆受に、また使者ともなって、師匠を助けて活躍をします。師匠が客死するにあたって、遺骨を奉じて京洛まで帰ります。
 その後、浄蓮寺に入寺して11世を継ぎました。文政11年には司教〔本願寺の学位〕を授けられ、同年の安居に「浄土和讃」を副講します。文政13年5月28日、京都学林にて入寂。亨年66歳。
 師は終生、妻を娶(めと)らず、常に粗服を着用し、「御文章」を懐にして、門徒を戸毎に訪ねて教化しました。ある夜更、室に籠って書見の際、賊が忍び入って金銭を強要しましたが、「我れ家事に関せざれば家人に求めよ」と言ったまま、依然として読書を続けたといわれます。
 著書に、『行一念録』『讃弥陀仏偈聴記』『信一念隨聞記』『本典総序聴記』『十二礼隨聞記』等がある。
 浄蓮寺にも大した住職がいたものです。それが中継ぎであったというのがちょっと残念!

 

 

浄蓮寺再発見7

浄蓮寺第14世住職夫妻御影 

 

 

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 浄蓮寺第14世住職夫妻御影

 遺影は今は、ほとんど写真ですが、古くは肖像画でした。ご門徒宅でも、よくそのような肖像画を見かけます。 
 浄蓮寺に残されている肖像画で、写真に近いリアルさで描かれているのが、この第14世住職夫妻の御影〔掛け軸〕です。先ずは、この肖像画に描かれている「紋」にご注目下さい。住職が掛けている「五条袈裟」には、「末武家」の家紋である「違い角紋」が描かれ、坊守が着ている「紋付」には、浄蓮寺の寺紋である「洲浜桔梗紋」が描かれているのです。実際に身に着けていたままを描いたのか、それとも、肖像画に、このような紋をわざわざ描き入れたのか、着用していた衣体や着物が実際にないので、真偽の程は解りませんが、本来ならば、住職の着用する袈裟には、寺紋が入るべきであり、坊守の着る紋付には、普通は個人的に着る機会の多い家紋が入るべきものであるはずのものが、逆になっているのが何とも言えないミステリーなところです。何故そうなのか?これは、お浄土に参た時に、本人たちに聞く以外にはありません。
  14世は現住職(釋一行)の曾祖父母です。住職(釋立泰)は、嘉永2年(1849)生まれ、大正元年(1912)示寂。坊守(釋尼智恭)は、嘉永6年(1853)生まれ、昭和6年(1931)示寂。
  日本が近代を迎える激動の時代をこの夫婦は生きられました。徳川幕藩体制から、明治政府へと、政治も経済も、法律も教育も変わる中、宗門も寺門も近代化への脱皮を余儀なくされました。宗門近代化の一環として、地方に教区・組が置かれ、最初の組長〔当時は、末武組と呼ばれていた〕に任ぜられたのが立泰師でした。その功労によって、顕彰碑が立てられました。〔この碑は、かつては、その前に池があり、灯篭があり、庭木で囲まれ、特別扱いをされたような碑でありましたが、今は、銘の刻まれた本体のみが、本堂前庭の「あずまや」の脇に、他の碑と共にひっそりと佇んでいます。何故、これほどの碑が建てられたのか?ただ、組長職を務めたというものでもなさそうです。先代が浪費し、おまけに子沢山で、経済的に困窮した寺門の建て直しをした。その功績によるものであるとも、聞いています。これは、余りおおぴっらには言えないことです。永い浄蓮寺の歴史にも、いろいろあったのですね。〕
  坊守・ウ子は、萩の家老の娘と言われますが、慣れない寺庭生活に耐え、夫を支えました。