前住職の第10世諦恵が早世したために、中継ぎとして浄蓮寺に入寺されました。
師は実乗、僧亮、武溪とも呼ばれました。安芸国に生れ、佐伯郡二十日市蓮教寺の衆徒(所属僧侶)でありました。大瀛(だいえい)和上の門に入り、宗学を究め、門下十哲の一人に数えられるに至り、さらに上京し、学林に懸席しました。
文化元年、三業惑乱〔宗義論争〕裁定のために、師匠の大瀛和上が江戸奉行所へ赴くのに、京都より同門の普厳と共に同行し、安心(あんじん)の糾明に、調書の筆受に、また使者ともなって、師匠を助けて活躍をします。師匠が客死するにあたって、遺骨を奉じて京洛まで帰ります。
その後、浄蓮寺に入寺して11世を継ぎました。文政11年には司教〔本願寺の学位〕を授けられ、同年の安居に「浄土和讃」を副講します。文政13年5月28日、京都学林にて入寂。亨年66歳。
師は終生、妻を娶(めと)らず、常に粗服を着用し、「御文章」を懐にして、門徒を戸毎に訪ねて教化しました。ある夜更、室に籠って書見の際、賊が忍び入って金銭を強要しましたが、「我れ家事に関せざれば家人に求めよ」と言ったまま、依然として読書を続けたといわれます。
著書に、『行一念録』『讃弥陀仏偈聴記』『信一念隨聞記』『本典総序聴記』『十二礼隨聞記』等がある。
浄蓮寺にも大した住職がいたものです。それが中継ぎであったというのがちょっと残念!