浄蓮寺の沿革

 

寺伝によると開基は、大内弘世四代の孫、勝屋左門重治で、父は勝屋右馬允興久と云い陶氏方の武将であった。興久は徳山・須々万の殿浴山城主であったが、弘治三年(1557)毛利元就との戦いに敗れ、城も落ちて勝屋一族は滅亡する。その際、重治は幼少であったので一命を助けられ、家臣の沼新左衛門・安達藤九郎に伴われて末武荘まで落ちのび、民間に成長した。しかし重治は頼る者もないので、父興久や討たれた家臣の菩提を弔うため発心して出家となり、名を蓮甫と改めた。その後、蓮甫は大島村(徳山・大島)の教西(福間源六広明)と名のる出家と語らって、共に上京し、浄土真宗法門に帰依した。本願寺で幾年かの修行を終えた蓮甫は、木像名号等を受け、再び末武荘に帰り一宇を建立した。これが浄蓮寺であり、慶長十五年(1610)十月十七日のことであった。本来ならば、蓮甫を開基とし、あとを教西が継ぐべきところを、既に老齢になっていた蓮甫はこれを辞退し、教西を開基とし、第二世を嫡男・宗甫に継がせた。その後、法燈連綿として、開基四百年を 3年後に控えている。尚、勝屋の姓が現在の末武に改まったのは明治五年。地名の由来の末武氏とは血族関係はない。

浄蓮寺の四季     

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