流罪を解かれた後、親鸞さまは、越後の豪族の娘・恵信尼さまと結婚され、いよいよ形のうえでも、念仏成仏の在家生活を送られる。

 僧侶の妻帯に関して、親鸞さまが初めてであったかと言えば、必ずしも、そうとは言えない。どこの世界にも、表と裏とがある。当時の仏教界の支配層は、貴族出身である。中には、伝統的な仏教を受け継いで、真剣に仏道を求める者もあったが、妻を持ったり、どこかに女性をかこっていたりする僧侶も多くあったようである。ただ、表向きには、妻とは言えなかった。

 親鸞さまの結婚は、浄土真宗と言う宗教にとっては、必然であり、裏表はなかった。生涯、罪業をかかえた凡夫として、煩悩のままに生き、阿弥陀さまによって救われてゆく念仏成仏の教えは、親鸞さまの妻子ある生活において、さらに深められたと言える。

 親鸞さまのことを、妻の恵信尼さまは、「観音の化身」のように思っていたことが文献(「恵信尼消息」)に記されている。では、親鸞さまは、妻をどう思っていたか?親鸞さまは、ほとんど私生活を語ることがなかったので、具体的な内容を知る由もないが、後に、真宗教団の寺々を支えてきた妻(「坊守」と言う。)の役割を思えば、いかに大切に思われていたかは察せられる。

 恵信尼さまは、肉食妻帯を堂々とする、当時の仏教界を揺るがす革命児のような夫によく従い、そのような親鸞さまを慕って集まってくる人々をやさしく迎え入れ、初期真宗教団の形成に尽くされた、歴史的にも偉大な女性である。寺院の内陣に掲げる御影に、女性像はないが、真宗寺院の内陣に、「恵信尼像」があってもおかしくはないほど、恵信尼さまは、親鸞さまにとっても、浄土真宗の歴史にとっても重要である。

 では、子どもたちはどうであったか?6人の子どもがあり、歴史的に重要なのは長男・善鸞と、末娘の覚信尼である。覚信尼は、関東の門弟たちと共に、親鸞さまの廟所(墓)を護り、後にそれが、本願寺へと発展する。

 長男・善鸞は、父・親鸞さまと共に、越後から、関東へ、そして、京の都へと付き従い、父より、直接に念仏の教えを伝えられた。誰よりも、父を理解しているはずであった。

 帰洛後に、関東の門弟たちの間には、親鸞さまの念仏の教えをめぐって、理解の相違が生まれ、どんな罪を犯しても、念仏で救われると言った極端な主張をする者も出て来た。それを収集するために、京より、親鸞さまの代理として、善鸞が使わされたのであるが、善鸞には父ほどのカリスマ性はなく、関東の門弟たちを統率する力がなく、逆に親鸞さまの教えとは異なることを説き始め、火に油をそそぐ、ミイラ取りがミイラになる結果になってしまった。後に、父は子との縁を切る(義絶)という不幸な結果になってしまったのである。

 親子の情から言えば、親鸞さまにとって義絶という事件は、断腸の思いであったろうがこれも、自ら開顕した念仏の教えを正しく継承するためには、止むをえない処置であった。

 妻子を持ったが故の悩みは、在家仏道を歩む者にとっては、これまた、必然のことである。それによって、念仏の教えの真実が否定されるものではない。親鸞さまにとって悲しい出来事であったが、この義絶事件によって、更に念仏の教えは深められた。

 親鸞さまが、晩年に著された「和讃」には、煩悩に苦しむ人間のありのままのすがたが描かれ、慚愧の思い、また、そのような罪業深重の身が、阿弥陀さまの本願に救われてゆくよろこびが切々と綴られ、人のこころを打つ。

        「 弘誓(ぐぜい)のちからをかぶらずは

              いづれのときにか娑婆(しゃば)をいでん

         仏恩(ぶっとん)ふかくおもひつつ 

               つねに弥陀(みだ)を念ずべし 」 (高僧和讃)

 

        「 無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて

            まことのこころはなけれども

         弥陀の回向(えこう)の御名なれば

              功徳(くどく)は十方にみちたまふ 」 (正像末和讃)