けれども、事はそれだけでは済まなかった。そのような人の中から、どんな罪を犯しても、阿弥陀さまは救ってくださるのだから、罪を犯しても構わないんだと極端な主張 をする人、振るまいをする人も出てきた。そうすると為政者もだまってはおれない。それが念仏禁止令である。親鸞さまは、その責任をとらされて越後へ流罪とな った。 親鸞さまは、法然さまによって、身の丈にあった仏の教えを知らしめられたのであるが、@それを生身の生活の中で、どう実践して行くか?(自分の問題)A罪を犯さなければ生きてゆけない人が、 実際、どのようにすれば救われて行くのか?(念仏者の社会生活の問題)Bその教えを仏教界や世間にどう認知させるか?(伝道の問題)という大きな課題をかかえていた。思想犯としての不自由な流罪生活の中でも、親鸞さまは、その課題克服に向け着々と思索を重ねられたのである。 都(京都)育ちの親鸞さまは、日本海の海に魅了された。海の深さ、広さ、荒々しさ、静けさ。そして、その中に、阿弥陀仏の本願を想い、自らと念仏者の生きる道を見出された。 「尽十方無碍光(仏)〔=阿弥陀仏〕の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしおに一味なり」(高僧和讃) 本当に、身を捨て(無我)て、阿弥陀さまのお心に飛び込んでゆけば、どんななりわいで世を過ごそうが、男女・貴賎・善悪に関係なく、必ず阿弥陀さまは救いとって下さる。世渡りは、念仏生活のただの方便だ!そのようにして、世を渡る者には、「魔界・外道もさまたげることはない」(歎異抄)のだと確信し、自ら、妻を持ち、子を持つ在家生活を始められたのである。 |